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自律した国民になるために

西欧が自律した個人を作り上げた原因は宗教革命であった。中世という時代の中では、人は生まれてから死ぬまで、ローマを頂点としたキリスト教支配による教会のもとに全てが決められ、人は生まれた身分のまま一生を終えることが伝統であった。そして教会の支配のもとに、生まれれば教会で洗礼を受け、結婚し、死んで葬られることが人生であった。西欧の人間を支配していたものは、絶対的な君主ではなくキリスト教会という政治制度であった。

それを変えたものはなんであったのか!明らかに宗教改革と呼ばれる教会を中継として神との契約の中に生活するものから、個人と神との直接契約の世界に変わったことである。それによって、人間は、どのように自分を律すれば神の意に沿える人間になれるのかと考えて行動する自律した主体に変わったのである。他律の世界が自律の世界に変わったものを中世からの脱却と呼ぶ。

今、日本人は自律しているのだろうか?自らに問う時が来ている。敗戦によって与えられた民主主義は機能しているのか?国民主権と言いながら、全てが官僚の決めた閣法制度という行政府の言いなりの国家に成り果てていることに、あなたは気づいているのか?自律とは自らが国を、制度を、人生を作り上げることであるが、本当にそのような国になっているのか!我々は自分たちに真剣に問う時にいる。戦後の日本は、全てが占領国の意思のもとに制度が決められ、それに従って我々、日本人は生きる道が定められた。それは決して自律した結果に生まれたものではない。一体、戦後の日本人の、どれだけの国民が実態を認識してきたのだろうか。明らかに国民は何も考えてこなかった。敗戦で焦土と化した廃墟の中から、国民は一刻も早く生活を取り戻すことだけを目標に懸命に働くしかなかった。結果として急速な経済発展は得られたが、国民は自分たちの人間としての目標を忘れ、ただ西欧並みの物質的な豊かな国の実現が目標と勘違いして今日に至っている。

我々は、もう一度、真剣に自らに問うべきだ。一体、戦後から現在まで、自分たちは何も求めて、どんな国や社会を作ろうとしてきたのか!ただ、時代の流れの中で、漫然と流されてきただけではないのか!選挙で選ばれてもいない官僚と呼ばれる自民党と一体化した国家公務員という公僕が、勝手に法律を作って国民支配をしてきたことを見てこなかったのではないのか!何も考えずにうまくいってきたという過去は忘れるべき時に来た。自民党から民主党に政権交代が起き、官僚たちは真剣に危機感を持ち、戦後以来の自分たちの既得権が消えることに真剣に向き合い、ついに国民に牙をむいたのだ。それが不正選挙というものであり、結果として官僚の傀儡の自民党の選挙での圧勝を実現させた。そして現在、この国では何が起きているのだ!

気づけ国民、阿部晋三・自民党政権は今日まで何をしてきたのだ。あらゆる意味で国民の権利に制限をかけ、官僚の利権拡大と、それと一体化した自分たち自民党の権力の強化に走り、集団的自衛権や秘密保護法で、完全に国民を支配して明治の官僚国家に戻そうとしている。そんな国にしたいのか!もっと国民は真剣に考えるべきだ。国民主権とは何か、本当に何もわかっていないことを自覚すべきだ。国家とは政治制度なのだ。今のこの国の政治制度が民主国家で国民主権の国なのか!あなたはそれを真剣に考えているのか。今しか変えるチャンスはない。このままでは本当に北朝鮮と同じ国にされてしまう。怒れ国民、本気で国を変える時だ!!

そして私も気づいた。仏教は自分の外にいる神に従うという西欧の一神教と根本的に異なり、己が神となることを目指す究極の自律した個人の確立なのである。だからこそ、明治以来に過去の日本人の精神的な基盤を捨てたことで、日本人は自律性そのものまでを捨て去り、今日まで漂流したままなのだ。なのにバカな知識人とか呼ばれている者たちの西欧至上主義の考えのもと、日本人は本当の自分を忘れ、どうすべきかを見失ったまま今も漂流したままなのだ。自分たちの過去の歴史を正しく見れば、我々はおのずと、どの方向に、何を目指して進むべきかを見れるだろう。日本人は決して情けない国民ではない。頑張れ国民!!
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近代政治思想の原理

戦後、我が国は敗戦によって民主主義といわれるものを戦勝国から強制的に与えられ、それに基づいた民主国家としてスタートした。しかしながら、殆ど100%の国民はその歴史的な原理としての民主主義のなんたるかを教育されてこなかった。その結果、われわれ国民は未だに近代民主主義の形成原理を正しく認識していない。三権分立や国民主権という言葉は知っているが、それがどのような原理によって確立されたかという理解がないのが厳然たる事実であろう。これを端的に現しているのか、今回の安倍晋三による強引な憲法の解釈改憲の国会論戦である。、野党にしろ、与党にしろ、ほぼ全ての国会議員たちには、近代政治思想の知識がまるっきり欠如していることをその論戦の中で露呈している。これが本当に民主国家かと、耳を疑う国会中継に唖然としているのは自分だけではないだろう。これが世界に配信されたら笑いもの国家は確実である。そうならないことを祈り、近代政治思想の形成原理を端的に以下に説明しておきたい。

以前にも書いたように、西欧の中世とは決められた身分制度の中で、決められた職業のままに、決められた生活をする枠組みの世界であった。特定の国というものはなく、時々で変わる支配者の支配する範囲の中で暮らす世界であり、唯一の政治的制度といえるものは、ローマを頂点として西欧中に張り巡らされた教会制度だけであった。この意味では西欧の中世とはキリスト教国家と呼ばれてもおかしくない存在であった。これを変えたものがマキャベリによる絶対主義国家である。そこで初めて個別国家と呼ばれるイギリスとかフランスという形の国が作られる。絶対主義国家は、特定の権力者の持ちもの国家である。そこでは権力者という支配者と、被支配者である人民という存在で国家が作られる。制度的には税金や徴兵制度が作り上げられ、その実行のために権力者を補佐する行政のための専門の官僚制度が生まれる。また、権力者の権威を裏付ける意味で宗教が利用され、国教制度なるものも作られた。普遍的な教会を通じたキリスト教社会は終了する。

同時に、人民と呼ばれる人間というものも宗教改革によって大きく思想が変わることになった。全てが教会を通じて普遍的に行われていた宗教活動は、神と個人の直接の関係に変わることで、人間が個人の自律を求められる存在に変わる。個人は何をすれば神の意思に従えるのかということを自ら考える存在となることで、個人が自律を通じて自立してゆくのである。さらに16~17世紀になると、ベーコンやデカルトによる人間と自然との存在的な分離がおきる。もはや自然は過去のように人間と共に存在するものではなく、人間が利用するべき物質的な存在に変えられてゆく。人間に対立して存在するものとして科学が発展し、自然を技術によって利用することで生産性を飛躍的に拡大させることが始まる。人間は理性というもので、未来を予知しながら労働によって生産を拡大する存在になる。デカルトによる二元論と呼ばれるものに従い、思惟する自我という存在と、それに対立する人間の身体を含めて、動植物から山や川の全ての自然は物質となるのである。

これにより人間は、それが生まれながらに持つ自由な存在に変わる。精神としての理性は他からの支配というものに束縛されないものであり、さらに支配者というものの圧政に抵抗する事は勿論、自由それ自体が積極的な価値に変わり、奪うべからざる原理へと変わっていった。従って中世のように、社会は変わらざるものとしての存在ではなく、自律した個々人が構成するものへと変化する。この原理はそのまま、国家というものは、過去のように特定の権力者が規定した範囲の土地や制度ではなく、自由な個々人の作り出す合意を得た制度、すなわち「政治制度が国家」という考えになる。簡単に述べれば、権力を制限して、その範囲だけの行為を権力者に許すというものから、権力そのものを被治者が乗っ取って、すべての人民が行使するという人民主権の思想になってゆくのである。この方法には数々のバリエーションが英国や、フランスなどの大陸型とで存在するが、基本的には、この思想をもとに民主主義思想が形作られていったのである。その本質は、国家の在り方とか、社会の組織というものは、理性ある人間が、必要に従って変えられるものであり、組み替えることができる制度となって行ったのである。

我が国は、戦後からたかだか70年弱の民主国家と呼ばれる存在に過ぎない。そのような中で、密かに官僚による独裁体制が国民には分からないように巧妙に仕組まれていることは閣法制度の存在で明らかにした。このような欺瞞を壊すことが大事なのは勿論であるが、われわれ国民が何をどうすべきかという認識がなければ何もできない。その意味でも、一人一人が民主主義のあるべき姿を正しく認識しなければならない。未来の子供たちによい国にするために、国民はもっと民主主義というものの原理をよく知るべきであり、一人一人の覚醒を願うものである。

国を変える劇的な方法がある-再掲

現在の官僚主導型の社会主義国家となっているわが国を変えるには時間と忍耐が必要だと何度も投稿した。しかし政治家の誰も変えるべき方法と具体策を国民に丁寧に提示していない。「政治主導」という言葉だけが踊って実効が出てこないのはそのためではないのだろうか。小沢一郎をはじめとした反・菅直人政権の議員たちにも聞いてみたいものだ。彼らも国民に対して詳細な説明は何も提示していない。 国民を裏切った菅直人やその同調者たちは論外であるが、時間がかかる事であるからこそ何をするべきかの具体策を国民に示すべきではないのだろうか。

官僚の力の源泉は何なのか。それは「予算」という金の力と「法律」という2つの国家の源泉を抑えている事だろう。それらに見られる典型が「特別会計」と「閣法制度」という2大カラクリである。極論すれば、これらの2つの制度を無くすだけでこの国は劇的に変える事が可能なのだ。予算、人事、組織、数々の規制や検察、警察による取り締まりの根拠、権利、等々は全て法律によって決まる。いかに立法行為が大事であるかが分かるのだが、残念ながら過去の自民党議員達は言うに及ばず、現在の政権政党である民主党議員達にもこの考えが希薄であることに驚く。彼ら国会議員には最強の武器である立法権が付与されているのに誰もそれを大きな力として行使しようとしていない。法律の策定は、全てが「閣法制度」という偽りの制度で行政府である官僚たちに任されているのだ。それに関わる官僚の人数は数千人を下らないという巨大な人数になっている。我々国民は、これが民主国家なのかを自問するべきだ。世界中のどこの民主国家に立法行為を行政府の職員に委ねている所があるのかを調べたらいい。逆に驚かれてバカにされるだけだろう。

結局、ここ3年近くも騒がれている小沢一郎と秘書達に対する不当な検察の捜査や起訴、裁判なども、突き詰めれば全て官僚側の恣意的にできる数々の法律というものによってなされている事が分かるはずだ。田中良紹氏がいみじくも述べた「誰も守れない法律や規制を作り、その取締りは恣意的に行う。」という原則で、政治家や国民が管理される仕組みが作り上げられているのである。その証拠は、最近投稿したように、公務員は何をやっても処罰もされないし責任も取らされない、という事実や、裁判における有罪率が99%以上などという異常な事実が存在する事でも分かるはずだ。又、国家の根幹である徴税についても、他の国では考えられないような法律の恣意的な解釈で税金の徴収が行われている。税金の取立ての条文の解釈は、財務官僚の勝手な解釈の「通達」のようなものだけで変更される事がずっと放置されたままでいる。このような大問題も国会で問題にされた事がない。議員たちの程度の低さが端的に示されるいい例であるが、こんな事で脱税だとして取り締まられる企業や個人はたまったものではない。正に官僚社会主義国家である典型的な例の一つなのである。

予算の内容に至っては他のどの国にもない「単式簿記」により会計処理がなされている。本来は単純な家計簿などに適用される方式が使われている理由は、収入と支出の「明細」が全く分からない点にある。勝手に使う側にとって、こんなに都合の良い方法はない。詳細情報が国民に知らされていないのに何の議論もないまま延々と行われている。私の投稿に批判の意見を書く人々は決まって政府の人件費情報は 27.2兆円と公開されていると言う。これは正規社員だけの予算だけであって、実際にいくら支払われているかの情報はどこにもないし、準公務員と呼ばれているものを含んだ数字は何もない。全てが欺瞞なのだ。

政権交代という事実は、国民が考えているよりはるかに大きな変化を生み出せる力を秘めている。だからこそ官僚や、それと一体化して権力や既得権益を守りたい自民党やマスコミ、一部の評論家などが必死になって民主党を潰そうと、あらゆる事をしているのが分かるだろう。笑ってしまうのは「自民党をぶっ壊す」と叫んで、改革、改革と言っていた小泉純一郎の言葉である。はたして彼は壊したのだろうか、だったらなぜ息子が自民党にいるのだろう。この事実だけでも全てが嘘だった事を証明している。表面だけを見ないで、裏に何があるかをしっかりと認識し、何をするべきかを国民はしっかりと自覚しなければならない。今ある事実をそのまま受け入れるのではなく、疑問があれば「おかしい」と考える事から全てが始まるのだ。

手始めは「閣法制度の廃止」と「特別会計の廃止」である。民主国家に変える努力を続けるという意思を持ち続ける事こそが大切なのだ。  


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