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再び仏教の思想について

西欧のユダヤ教にみなもとを持つキリスト教やイスラム教は、唯一神による信仰である。キリスト教では、人間は神の決めた掟に違反した事から原罪というものを背負わされた存在とされる。その根本にある思想は、神という自分に対立する他という絶対の存在である。そこから西欧の自我の絶対化、自己の独立という感覚が出ていると思われる。自己に相対する神という絶対的な他者の存在、そして個人の絶対性を言いながら、自分はその絶対者に全てを委ねるという矛盾を認めない。絶対者が命じれば殺人も許容されるのである。

仏教はどうか。難しい理屈を省けば、自己と他人との区別を認めない。縁起というものによって、あらゆるものは関連の中にしか存在しえないとする。自己の存在は、はるかかなたの人類の発生から延々とつながった生命の連鎖の結果である。その生命は空気や水、動植物などの命によって支えられてきた。それらの全ては地球という存在の中にあり、地球の存在は太陽などの宇宙の存在の中で存在できたものである。個人とは絶対性は個にあるのではなく全体の中の一部の関係したものに過ぎない。それを無我といった。無我とは己が存在しないというニヒリズムではない。関連の中の一部であるから、個という独立したものが無という意味に過ぎない。仏教に絶対神は存在しない。おのれが仏という神になろうとする宗教である。他者に助けを求めるのではなく、自己の中に真理を追求する事で神を目指す。キリスト教などの一神教において、神はあるものであるが、仏教において神はなるものなのである。

それでは個人の幸せは何に求められるのであるのか?個を否定して何が人生であるのかと自問するだろう。慈悲という言葉にそれがある。慈とは他人に楽を与える事であり、悲とは他人から苦を無くす事を言う。その結果が個人の悦びになることで幸せを感じるのである。それに対して西欧の思想は正反対である。競争という戦いによって他人との競い合いにより幸せが獲得できるという。勝者にあらざれば何も獲得できない。幸せとは己の欲望の満足に過ぎない。しかし、待ってくれ、米欧では日本よりも貧者に対する寄付行為が多いではないか。これはいかなることなのかと。しかし、その根底にある真理とは、絶対神である神に対して、自分はこれだけ善きことをした。だから最後の審判の時に救われて永遠の神の国に召されられるという自利の思想があるのではないのか。あくまでも個人の救済がその裏に存在している。仏教とは違う心理である。仏教は決して他人の中に救いを求めない。不動明王という怒りの神すら、それは他人ではなく、自己の内面に対する怒りの神である。

過去の長い歴史の中で、西欧の進歩の歴史は、その中のたったの3~4百年程度の時間で地球のあり方や人間のあり方を劇的に変えてしまった。人間とそれ以外の物質という見方により自然を研究する事で科学技術を発達させ、その結果によって自然を人間のためにだけ利用する対象に変えた。確かに人間にとって物質的には極端に豊かな世界は実現できた。しかし、自然破壊や、原水爆や原発などの巨大で危険なものまで生まれた。人類はこれらのものにより、いつ滅亡するかも分からないのに、楽観的な考えだけが横行している。悲観的な見方をすれば、発展から取り残されるだけという物質的な欲望だけの世界に変わってしまった。

我々の世界から精神的な問題がどんどん消えている。技術的な理性ばかりが尊重され、過去には正反対であった叡智的理性がどんどん隅に追いやられようとしている。その結果が日本のような嘘が当たり前の社会に成り果てている。政治家は公約を平然と破り、それを知識人やマスコミが何も非難せず、あたかも正しい事であるかのような滅茶苦茶な事がおきている。世界は西欧の物欲至上主義に変わり、至る所で自然破壊が進んでいる。

再度、問おう。明治維新で、日本人が過去から持っていた自然崇拝の神道や仏教、強い倫理観のあった儒教などの全てを捨て、西欧の科学技術による富国強兵の思想で国を作り変えた事は正しかったのであろうか。我々が古くから持っていたこれらの思想を捨てたままで本当に良いのか。今一度我々は真剣に考えるべきである。中国や韓国などと領土問題で対立するだけで、そして米国という強大な軍事力を持つ国とだけつながることが正しいのか。我々は本当の意味の世界観を持つ必要はないのか。あるとすれば、その根拠とすべき思想は何に求めるのか。そのような背景抜きに、わが国が世界に対して言葉を発する意味は何もないだろう。ただ経済、経済、援助という言葉の裏にある金というものだけで世界と付き合って尊敬されてきたのか。あまりにも日本人は軽薄になり過ぎていないか。仏教の思想を忘れすぎていないか、反省すべきである。
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般若心経の現代語訳

摩訶般若波羅蜜多心経

実相を自在に観る目の開けた菩薩は、

般若波羅蜜多を深く行じていた時

我々の体や精神作用は自性を持たず、
縁起による無常なる現象なのだと見極めて

一切の苦悩、厄災から免れたのである。

舎利子よ

あらゆる物質的現象には自性がなく

自性がないという実相は、常に物質的な現象
という姿をあらわす。

物質的現象は自性がなく

自性がないゆえに、縁起することで物質的現象で現れる。

従って、感覚も、表象作用も、意思も、意識・無意識を含む
あらゆる認識にも自性はなく、縁起により無常の中に生滅している。

舎利子(智慧第一とされる釈迦の弟子の一人)よ

この世の全ての存在するものには自性はない。

だから

生じもせず、滅しもせず

汚れたり浄くもない、

また減ることもなく、増えることもない。

あらゆるものに自性はないという立場で見れば

感覚にも、表象にも、意思にも、認識にも自性はなく

目も耳も鼻も舌も身体も心も単独で存在するものではなく

そこで捉えられる形、声、味、香り、触れられる対象も自性はなく
全ては感覚と対象の出会いというもので感じられるだけの 幻想に過ぎない。
 
それ故に無明は存在せず

無明から

最後の老死に至るまでの全ては自性がなく

十二因縁の全てのものにそれは当てはまるものであり

四諦で定義される苦・集・滅・道というものもないのである。
(苦は人生の苦しみ、集はその原因・それは欲望、滅は苦の
原因の 欲望を滅ぼす事、道は滅ぼすための方法を示している)

般若波羅蜜多とは、智と呼ばれるものでも、得られるものでもなく
もともと「いのち」という実相の発現そのものであるのだから
別にあらためて得るというものではない。

求道者としての菩薩は、

般若波羅蜜多を実践したことにより

心に何のわがかまりもなくなった。

わだかまりが無くなったがゆえに、

恐れもなく、

一切の邪見、偏見から自由となり

永遠なる心の静寂を得る事ができた。

過去・現在・未来の全ての仏と呼ばれる人々は、

この般若波羅蜜多を実践する事で

この上ない普遍的な人格に目覚めるのである。

だから今、知るべし

般若波羅蜜多とは

大いなる神秘の咒文なのであり、

光輝ある咒文であり、

最高の咒文であり、

比類なきものである。

この咒文は、この世の一切の苦悩を取り除くことにおいて

まさしく真実であると共に、一点の虚妄もない。

ではその般若波羅蜜多の

咒文を示そう。

原文のまま 羯諦、羯諦

原文のまま 波羅羯諦

原文のまま 波羅僧羯諦

原文のまま 菩提薩婆訶

ここに智慧の完成の教えを終わる

般若心経

摩訶般若波羅蜜多心経

原文        読み        解説

観自在菩薩  かんじざいぼさつ  観自在菩薩、

行深般若波羅蜜多時  ぎょうじん・はんにゃはらみつた・じ  般若波羅蜜多を深く行じし時、

照見五蘊皆空  しょうけん・ごうん・かいくう  五蘊は皆、空なりと照見して、

度一切苦厄  ど・いっさい・くやく  一切の苦厄を度したまえり。

舎利子  しゃりし  舎利子よ、

色不異空  しき・ふ・い・くう  色は空に異ならず、

空不異色  くう・ふ・い・しき  空は色に異ならず、

色即是空  しきそく・ぜくう  色は即ち是れ空、

空即是色  くうそく・ぜしき  空は即ち是れ色なり。

受想行識亦復如是  じゅそうぎょうしき・やく・ぶ・にょぜ  受想行識も亦復た是くの如し。

舎利子  しゃりし  舎利子よ、

是諸法空相  ぜ・しょほう・くうそう  是の諸法は空相にして、

不生不滅  ふしょう・ふめつ  生ぜず、滅せず,

不垢不浄  ふく・ふじょう  垢つかず、浄からず、

不増不減  ふぞう・ふげん  増さず、減らず、

是故空中無色  ぜ・こ・くうちゅう・むしき  是の故に空の中には色もなく

無受想行識  む・じゅそう・ぎょうしき  受も想も行も識も無く、

無眼耳鼻舌身意  む・げん・に・び・ぜつ・しん・に  眼も耳も鼻も舌も身も意も無く、

無色声香味触法  む・しき・しょう・こう・み・そく・ほう  色も声も香も味も触も法も無し、

無眼界乃至無意識界  む・げんかい・ないし・む・いしきかい  眼界も無く、乃至、意識界も無し。

無無明  む・むみょう  無明も無く、

亦無無明尽  やく・む・むみょう・じん  亦、無明の尽くることも無し。

乃至無老死  ないし・む・ろうし  乃至、老も死も無く、

亦無老死尽  やく・む・ろうし・じん  亦、老と死の尽くることも無し。

無苦集滅道  む・くしゅうめつどう  苦も集も滅も道も無く、

無智亦無得  むち・やく・むとく  智も無く、亦、得も無し。

以無所得故  い・む・しょとく・こ  得るところ無きを以ての故に。

菩提薩曙煤  ぼだいさった  菩提薩曙狽、

依般若波羅蜜多故  え・はんにゃはらみつ・た・こ  般若波羅蜜多に依るが故に、

心無罫礙  しん・むけいげ  心に罫礙無し。

無罫礙故  むけいげ・こ  罫礙無きが故に、

無有恐怖  む・う・くふ  恐怖有ること無く、

遠離一切顛倒夢想  おんりいっさい・てんどうむそう  一切の顛倒夢想を遠離して

究竟涅槃  くぎょう・ねはん  涅槃を究竟す。

三世諸仏  さんぜ・しょぶつ  三世の諸仏も、

依般若波羅蜜多故  え・はんにゃはらみつた・こ  般若波羅蜜多に依るが故に、

得阿耨多羅三藐三菩提  とく・あのくたらさんみゃくさんぼだい  阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。

故知  こ・ち  故に知るべし。

般若波羅蜜多  はんにゃはらみつた  般若波羅蜜多は

是大神咒  ぜ・だいじんしゅ  是れ大神咒なり、

是大明咒  ぜ・だいみょうしゅ  是れ大明咒なり、

是無上咒  ぜ・むじょうしゅ  是れ無上咒なり、

是無等等咒  ぜ・むとうどうしゅ  是れ無等等咒なり。

能除一切苦  のうじょ・いっさいく  能く一切の苦を除き、

真実不虚  しんじつ・ふこ  真実にして虚ならず。

故説般若波羅蜜多咒  こ・せつ・はんにゃはらみつた・しゅ  故に般若波羅蜜多の咒を説く。

即説咒曰  そくせつしゅわつ  即ち咒を説いて曰く、
 
羯諦羯諦  ぎゃてい・ぎゃてい  羯諦、羯諦、

波羅羯諦  はらぎゃてい  波羅羯諦

波羅僧羯諦  はらそう・ぎゃてい  波羅僧羯諦

菩提薩婆訶  ぼじ・そわか  菩提薩婆訶

般若心経  はんにゃしんぎょう  般若心経

以上、出展は玄侑宗久氏による現代語訳般若心経から

仏教というものの理解を難しくしているもの

キリスト教には聖書という一つの経典があり、イスラム教にもコーランという経典があるように、これらの宗教には細部が違っていても基本は同じである。しかるに仏教というものは宗派にもよっても異なり、小乗と大乗というものでも思想は異なって見える。それが発生したインドを経て、中国、朝鮮を経て日本に到達して、その中身についても土着の思想と結びつくことでさらに複雑化したように思える。経典は無数に存在し、それらすべてが釈迦の教えという事だけでは一致するが、その内容の違いが我々を驚かせる。どれが本当の教えなのか分からなくなるのは当たり前のように思えるのである。さらに日本においては明治維新の廃仏毀釈により、過去から続いていた神仏混淆というものが徹底的に破棄され、古くからあった仏教や儒教、原始神道のようなものは棄て去られた。新しい国家は西欧の科学技術による富国強兵のために、その道具として新しい宗教として国家神道というものを作り上げる事で国民をまとめ上げた。仏教は葬式という儀式だけのものに成り果て、国民の中から思想としては忘れ去られたのである。

我々は、この不幸な過去を見直さなければならない。日本人の歴史の中から仏教というものを考えずに、その優れた文化を理解する事は絶対に不可能である。今では本当の意味で仏教は単なる葬式のためのものに成り果てようとしている。そして同時に、過去からあった日本人の優れた道徳観も忘れ去られようとしている。西欧の資本主義的な考えによる生活は、基本的には欲望の無限の追及に他ならない。昨日より今日、今日より明日は必ず良い生活が待っているという幻想の中に我々は暮らしている。そのような生活の中で仏教の占める位置など何もなくなっているのは当たり前に見える。時代が進むにつれて日本人の心が殺伐とし始めているのはなぜなのか。我々は真剣に心の問題を問わなければならない。その意味で仏教というものの理解を深める必要がある。何が仏教という思想にあるのか、それをできるだけ簡略に述べてみたい。

原始仏教は釈迦の思想によるおのれの救済である。人生は苦であり、その苦からの離脱のためになすべきことを釈迦は説いた。それを涅槃と呼ぼうが悟りと呼ぼうが、いずれも自身がどのように苦から逃れられるかの追求であるに過ぎない。そこではおのれのそ悟りの追及のためだけが重要なものになっていただけである。俗世間から離れ、一人、山の中にこもり自分のあるべき姿を追求するという考えは生命そのものをどのように考えるのかという忘れたかのような思想になってゆく。それに反発する意味で大乗仏教というものが生まれる。人生を、生命を無視して何が生まれるのであるのか。おのれだけではなく他人も救済せずして何のための仏であるのかという考えが起きる。小乗という自利だけの思想に大乗では利他の思想が加わってくる。あたかもキリスト教のカトリックとプロテスタントのような違いが生まれるのである。この釈迦の教えというものを至上主義とする小乗あるいは部派仏教と呼ばれるものは、日本では奈良仏教と呼ばれるものである。大乗仏教は平安時代の最澄による天台宗から始まり、空海による真言密教を経て、鎌倉仏教と言われる浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗となり現代につながってゆく。これらの宗教は日本の原始神道と交わることで神仏混淆という形が作り上げられ、インドや中国とも異なる形で日本国民の中に浸透していったのである。いずれにしても、その中にあることは、欲望というものをコントロールするという意味で道徳の基本となる思想となっていった。なかでも真言密教は自然崇拝と共に煩悩即菩提とか即身成仏という意味で現世の肯定と共に、自利という側面が大きいものであるが、それは天台宗と共に多くの日本人の精神的なものの背景となっていった事は間違いはない。それらの思想はやがて鎌倉仏教というものを生み出す母体となったのである。

この流れは江戸時代になってから、キリシタンの規制のための檀家制度というもので新しい思想が生まれる素地を止められたが、仏教そのものが日本人の中から消えるという事にはならず、道徳の基本的なものとしての位置は変わることはなかった。武士階級では儒教、なかでも朱子学が基本的なものとして採り入れられて、仏教よりも儒教の教えが道徳の基本として深く取り入れられたが、仏教そのものが精神的に無くなることはなかった。これが大きく変わったのは、前述の通りの明治維新の富国強兵のための思想の大転換である。明治から太平洋戦争の敗戦まで、国民の道徳的な教育は国家神道による天皇を神とする全体主義的教育のためのものであったが、それは敗戦によってすべて否定された。天皇は神ではなく人間宣言する事により、この国から全ての神は消え去ったのである。その結果、日本国民から道徳の規範の全てが消えうせてしまった。あたかも民主主義が道徳であるかのような錯覚が生まれ、精神的な支えを失ったまま現代まで来てしまっているのである。今、まだわずかとはいえ、過去の仏教などの道徳の規範を持っている人間が存在するうちに、もう一度その復権が必要なのではないのか。それを我々は真剣に問うべきなのである。

矛盾の思想・禅

臨済という禅は公案という問答により悟りを助けるという。曹洞宗は坐禅という実践を重視する。禅は「無」というもので象徴される。西田幾多郎は禅の思想から絶対矛盾の自己同一という哲学を作った。それは何を意味しているのか。禅の公案に、木に登り枝をくわえるだけで動けなくなっている者に師匠が問いを放つ。答えれば口が開いて墜落して死ぬ。その絶対的な矛盾の中に真理を見るというものである。西欧思想とは全く逆の考えに西欧人は驚く。矛盾のない世界を求めるのが西欧思想であり、それを追求する事で科学技術も哲学も発展させてきた。しかし世界の実態は矛盾そのものである。だからこそ多くの西欧人は禅の中に真理を見て驚くのである。

我々は明治以来、西欧思想こそが正しいものと、その移入に躍起になって過去の八百万の神という本来の原始神道や、中国や朝鮮を経由して移入した仏教や儒教の思想を放棄してきた。そして太平洋戦争に敗北して、米国をはじめとする西欧による民主主義という制度の移入で、過去の価値観を180度転換する事になった。明治維新の西欧の科学技術の思想はそのままで、天皇を神とする国家神道の全体主義国家の覇権主義が完全に否定されたのである。西欧型の合理主義が教育に入り、その結果が宗教というものの否定になり、道徳までもが無くなってしまったのである。そして米欧人が「禅」というものに驚くと、それだけが目的化して仏教を禅、無というものだけで見るというバカな事態が日本を覆い尽くすことになった。まさに禅の言う矛盾が日本を覆い尽くしたのである。おかげで竜安寺の石庭は大繁盛し、日本は無という言葉で覆い尽くされてしまった。しかし仏教は「無」というものだけなのであろうか。それを我々は問い直さなければならない。

西欧思想こそが正しいとする明治以来の考えは時代遅れとなっている。世界は明らかに西欧思想で行き詰っている。その思考過程のなかでの「禅」というものの見方にも我々は反省すべきである。仏教、中でも日本仏教というものの正しい理解が必要なのである。「無」だけで仏教を理解する軽薄な考えを見直さなければならない。人間の善なるものと、悪であるものを凝視する深い思想、それこそが仏教の本質である。小乗仏教という自分の中の苦からの脱却のための悟りの問題だけではない、他者の救済にも重点を置いた大乗仏教が日本仏教の主流である。小乗仏教は奈良仏教と呼ばれるものに限定されているが、大乗は平安以降の天台宗、密教の真言宗に始まり、その後の鎌倉仏教と言われる浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、禅宗は日本中に多くの信者を持つ。密教と禅は他者を救うという利他の思想よりも自分を救う自利の思想が強い。なかでも禅は分かりにくい。その大きな原因は前述のとおり矛盾というものを通して、絶対的な自由の考えにより坐禅という実践を通じて自身の中の仏性を働かせる事で悟りに至るというものである。禅は自分の外にある仏像を拝まない。禅寺には基本的に仏像はない。あるのは祖師である僧の像などに限られる。個人の中の仏性というものを追求するためである。禅の神髄は既存の価値にとらわれない自由な心、論理や理屈を超えたものにある真理の追究。全ては己の中にあるとする人間の心の追求である。そのために坐禅という実践を通じた強い倫理観というべきか、戒律を守る意志が求められる。理屈では分からない、それを超えたものが求められるのである。日本の禅は、中国で栄えた時のものが移入された事で、そのなかに中国的なものを見てしまう。どこか儒教に通じる徹底した現実的な考えともいうべきものがその根底にあるように見えるのである。

以上で私の禅に対する考えを終わる。我々の中にある仏教というものを語るとき、特に外国人が最も興味を示す「禅」というものにどのような思想があるかを示す助けなれば幸甚である。
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