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我が国の行政府の大改革が必要だ

今回の地震と福島原発の問題は、この国のマスコミの報道の酷さ、原子力安全保安院の対応の酷さ、厚労省の主導性なき対応の酷さ、国交省などの流通に関わる交通規制の酷さ、等々の数々の公的機関に関わる問題が多数露呈している。マスコミは全てを官邸という政治家の責任にしようとしている事も問題を歪めている。危機管理に必要な事は正確な情報の収集と的確な対応の実施である。この中での役割は、政治家は管理者であり官僚や行政機構は実務者である。実務が機能していないと言う事は明らかに官僚達や官僚機構が機能していないのである。もしも政府の危機管理部門に対して正確な情報も提供せず、また指示に従わずに省庁ごとに勝手に動いたならどういう状態が起きるのか。今回の地震と原発事故はそれを如実に示している。

過去に何か問題があるたびに所管大臣の責任だけが問われ、実務責任者である官僚たちの責任が問われた試しがない。これが何を意味しているのか、我々は今一度よく考えるべきである。本来、なにかあった時に対応がまずかったら実務責任者も管理責任者も責任を問われなければならない。政治家だけが責任を問われるような形であれば結局、官僚たちは失敗してもなんとも思わなくなるだろう。そうなれば誰も政治家の指示など無視して勝手に自分たちのれ利権だけを基準に物事を進めるのは明らかである。戦後以来、この状態を官僚たちは意図的に作り上げてきたように思える。そして閣法制度などにより実質的な立法行為を背景に巨大な権力を握ってしまった。もはや今の日本に民主主義は存在していないのは明らかである。

我々は我々の代表者である国会議員たちの権力を回復させ、本当の意味の三権分立を機能させるために行政府の機能の大改革をするべきである。その前提として公務員の責任の明確化をするための法律の策定が急務である。官僚たちの無謬性などと言うバカげた思い上がりを徹底的に潰し、何かあった時の責任追及とその結果責任を問わなければならない。減給や降格はもとより、懲戒免職を含めた厳罰が適用できる法律が必要である。国政がたとえ間違った方向で進むとしても、それが我々の選んだ政治家による決定であれば責任は国民が取るものである。それを勝手に官僚機構が変えて別の方向に進むことを許してはならない。彼らに責任が問われないのなら何の権限も与えてはならない。今のこの国は明らかに行政府に権力が集中しすぎた以上にいびつな社会主義国家になっている。早急な国家形態の変更が必要である。

ついに出始めた官僚主導の復興予算

経産省から基金とか補助金という形の一千億円にものぼる被災地への支援名目での復興予算の分捕り合戦が開始された。このような特定の事業のための基金とか補助金ほど官僚たちにとっておいしいものは無い。政治主導と言いながら菅直人政権は何をやっているのか、全てを官僚に丸投げしているのは間違いない。

我々はこのような各省庁ごとの縦割りの勝手な予算の立て方を許してはならない。間に官僚の天下りである独法や業界組織等を介さずに、まずは大方針を立てて、それに沿ったインフラの整備を主体に被災地と被災者の救援が第一のものにしなければならない。支援は直接に国民と被災地にする方式にするのが大原則にするべきである。とくに被災地の復興には地方が主体にするべきで、地方に対するひも付きが一切ない自由に使える予算を提示して実行するべきである。

何度も言っているように、このような不幸な事態を利用する官僚たちの火事場泥棒的な予算の分捕り合戦を許してはならない。我々は被災地と被災者の復興支援のための税金は喜んで払うが、それを悪用するような形があれば絶対に許してはならない。今こそ本当の政治主導が試される。出来ないなら菅直人は直ちに総辞職すべきである。また国会議員たち全員は東北地方の全ての高速道路を何で無料開放させないのか、今こそ無料開放して被災地を助ける時である。

今、何がこの国や我々に求められているのだろうか

国の形を変えるために閣法制度の廃止や官僚制度のあるべき姿を以前に述べた。その前提は三権分立という原則の確立であった。民主主義という制度の歴史がたったの65年しかない我が国に求められるものは何かという議論がないことが不思議である。過去の自民党による一党独裁体制から変えるためには何が必要だったのかという基本的な議論が未だにない。その結果が今の民主党政権の情けない姿であり、我々国民の他人任せの責任放棄にも近いやり方の結果ではないのだろうか。我々は政治や政治家に何を求めているのだろうか。自問したことがある人はどれほどいるのか聞いてみたい。マスコミも国民も政府の非難だけはするが、どのような国家にするのかという根本的な議論がない。些末な毎日の政治家たちの行動の事や政策にばかりこだわって、本当に必要な事は何も語られない、これがわが国の現実なのではないのか。

確かに「国民の生活が第一」という政権交代のスローガンは正しいのだろう。しかしながら、その実現のための具体策はどのような思想的なバックグラウンドから来ていたのであろうか? 政治主導という考えのためにどのような事がされるべきだったのか検証されているのであろうか。2年も経たないうちに全てを放棄するかに見える菅直人政権の体たらくは何が原因なのか、考えれば考えるほど訳が分からずに腹が立つ。何の説明もなく公約違反が続く状況に彼ら、彼女らに責任感の一片も感じられない。このままでは何回政権交代しても何も変わらないだろう。我々も政治家も根本的な考え方を今一度整理するべきである。

何度も述べてきたように、民主主義というものの成立の基本的概念の欠如が国民主権の確立を妨げている。国民が選んでもいない官僚というものが国民をコントロールするような国は断じて民主主義国家ではない。我々はこの国で三権分立が機能しているのか良く考えるべきである。海外から政治的に三流以下と揶揄されているのは当然であろう。何故ならなんの思想的なバックグラウンドも、正しい知識さえ国民も国会議員たちもが持ち合わせていないからである。インターネットなどの情報機器の発達で少しの改善はみられるが、依然として何が正しいのかの議論もなく、既存のメディアによる既得権側の情報操作に国民は容易に踊らされている。

本当の意味での民主主義の確立は大前提であるが、我々はどのような国をめざし、どのような共同体を作り上げ、どのように他の国や国民との共生を目指すのか。そのためにはどのような国家形態を選択し、どのような制度が必要で、どのような政治的、社会的思想を背景にするべきなのか議論しただろうか。この問題は国民の教育をどのようにするかという根本的な問題に行きつく大事な問題である。過去65年という短い見せかけの民主主義の歴史の分析さえもせずに未来を語れるのだろうか。歴史という大切なものの分析があまりにもこの国にはない。その代表的なものは、安易な「ばら撒き」と呼ばれる国民支援の政策に対するマスコミの非難に見てとれる。 まさに過去からやっている事を変えたくないという典型的な事なかれ主義である。

過去の歴史を見ても日本ほど独自の思想を展開しないで、また他国の思想もそのまま受け入れなかったというユニークな国はない。仏教というインド、中国を経由した思想を受け入れたがそれを自分たち独自のものに解釈し展開した。中国からの儒教というものは、思想としてではなく学問の一つとして採用したうえで制度としては受け入れなかった。唯一、明治維新以降の西欧の物質的な進歩史観だけは思想的に受け入れたままである。その背景にあったのは西欧各国に侵略されるという切羽詰まった危機感である。そのために過去の思想を徹底的に排除し、国家体制も劇的に変えてしまった。我々の祖先はそれほど見事に変革を遂げる事が出来たのだ。今こそこの明治以来の西欧崇拝一辺倒の思想を見直し、過去2千年近くにもわたる貴重な精神史を復活させ、わが国固有の思想と西欧思想との融合の見事なお家芸を見せる時である。

今こそ無駄な事業を削る時だ

マスコミ報道が正しいとすれば、バカ内閣は子ども手当や高速道路の無料化を予算から削って法案の国会通過だけを考えているようだ。これほどバカな定見のないやり方があるのかと耳を疑った。すでに中東問題でガソリンや灯油は値上がりが必死であるし、福島原発の問題から食料品の値上がりも確実だろう。あらゆる点で国民の生活に必要な生活必需品が値上がりする。こんな状況下で何も考えることなく、政権交代の一丁目一番地である国民の生活が第一の主要政策を後退させれば、ますます低所得者、ひいては被災者にまで値上げの波が押し寄せてしまう。

このように国民のことを無視するような政策の変更は断じて認めるべきではない。不要不急の事業は多数ある。特に天下り先への補助金を見直しや公務員の人件費を削るだけで数兆円の財源は確保できる。さらに科学技術関係の3.5兆円にものぼる補助金政策を根本から見直せば50%程度の削減は可能だろう。また本丸である特別会計の一般会計への繰り込みが出来れば国民生活に必要な政策を削る必要はなくなるはずだ。一体、菅直人は何を考えているのか。せっかくの政権交代の成果の全てを政権の延命のために捨てるつもりなのか、本当にあきれかえる。

単なる人気取りではない本当の意味の復興支援予算が必要なのだ。今こそ過去のしがらみを断てる絶好の機会ではないか。各省庁が既得権化して手放さない無駄な事業を一掃するべきだ。それに反対するようなら、その時は官僚たちが自分たちの利権だけしか考えない無駄な組織である事が白日の下に晒される。徹底的な予算の見直しを行い、長年にわたって変わらない各省庁の予算に占める構成比を完膚なきまでに崩して国民のための予算にするべきである。姑息な補正予算などで対応すれば官僚たちの既得権は何も崩すことはできない、本予算の組み換えしか真に必要な復興のための予算は作る事は出来ない。

自国の精神史を知らなすぎる日本人

仏教に基づく精神というものの見直しを投稿するたびに訳の分からない非難の意見が現れる。このような非難を行う者たちは我が国における仏教の何を知っているというのだろうか。西欧のバックボーンになっているキリスト教の何たるかを知らないように我が国の大乗仏教の歴史すら知らないのではないだろうか。寒気を覚える意見には宗教は単なる支配のための道具に過ぎないと一笑に付すだけのものがあった。新興宗教ではあるまいし平安時代以来の長い歴史のある仏教と日本古来の神のまじりあった神仏混合の考えは嫌でも我々の生活の中に根付いている。そのような歴史的な感覚もなく、ましてや仏教の何たるか、宗派別の考えの違いなどをどれだけ我々は知っているのか自問してみればいい。「もののあはれ」という日本独特の感情がどこから来ているのかを考えてみたらいい。

私は西欧思想の全てを非難しているのではない。たしかに世界は西欧文明による科学技術に基づいて飛躍的に発達したことは否定しない。しかしながらそれをもって全てが西欧の尺度で進めなければならないと考えるのはどうなのか、という提案に過ぎない。我々が明治以来に教え込まれてきた西欧一辺倒の考えは正しかったのか、それを立ち止まって考えるのは何も悪い事とは思えない。教育においても国策においても科学技術が依然として偏重され続けている事は正しいのか、それを使うための精神的なバックボーンの教育はあるのか、それを問うているのだ。一体誰がこのような問いを発しているのか、ほんの少数の知識人以外は何も意見を発していないし、ましてやメディアも何もその事は取り上げない。世界の複数の国々は核という恐怖の兵器を無数に所有している事実があるのに、世界はそれが存在しないように思えるほど無視している。この現実を変える努力は殆どなされてはいない。唯一の被爆国である我が国は何ができるのか、そのために国民の考え方のバックボーンはどうあるべきなのか。残念ながらそれについては戦後以来、被爆地や被爆者以外が大きく声を上げたり行動しているとは思えない。核兵器以外でも戦争は依然として世界中で起こり続けている。国と国の利害関係の調整は遅々として進まず、現実に対して世界は無力なのが現実だろう。

このようなものに対する唯一の改善手段は我々の考え方を変える事しかないのではないのか。それを行う努力ができるのであれば非難する前に実行するべきであるし、少なくとも議論はするべきである。最低限の食料や生活は必要であるが、物質だけで人は絶対に豊かにはなれない。他人との共生抜きにしても生きてゆく事も出来ない。仏教という言葉だけで拒否反応を示さずに、自らそれが何たるかを調べる事もなく安易に非難せずに、多くの人々がその思想を知る事を希望してやまない。我々には素晴らしい精神的な歴史があったことにきっと驚くはずである。
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