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世界には新しい思想が必要である

西欧の哲学思想の根底にあるものと、日本の仏教思想の根底にあるものとの決定的な違いは何であるのか。この問いに答えられる日本の哲学者はあまりにも少ない。それはあまりにも西欧哲学ばかりを研究するだけで日本仏教の思想を何も知らなすぎるからである。極端な学者に至ってはヘーゲルならヘーゲルしか研究せずに、全てをヘーゲル的にしか解釈しない。そこには明らかに西欧思想こそが正しいという偏見があり、それゆえに他の何も見ていない事が見て取れる。これがわが国の明治以来から連綿と続く、西欧崇拝という精神構造になっている原因である。

西欧思想の全てを否定するつもりはないが、西欧思想しか正しくないという考えには明らかに間違いがある。世界は西欧的な進歩史観に基づき物質的には確かに豊かになった、しかしながら依然として世界から戦争はなくならず、核の脅威も無くなってはいない。国際連合という世界的な機関は存在するが、それが決定的な解決のための機関にはなりえていない事も事実である。それでは西欧思想の根源はどこに見るべきなのであろうか。それは古代ギリシャの哲学という見方で間違いはないであろう。それは世界というものの根本原理は火、又は戦争という「闘争」というものにおいた。そして絶えず流動する世界をつなぐものがロゴスと呼ばれる言葉、または論理として考えられた。このロゴスなる考えは原始キリスト教にも影響を与え、イエスそのものの本質とされたのである。「はじめに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった」という有名なヨハネの福音書の言葉はここから作られている。ここに「闘争」というものを根本原理にする西欧思想が現代まで続くわけである。この「闘争の原理」という西欧の思想は時には「競争の原理」として世界を発展させたことは間違いはない。しかしそれはあまりにも物質的な問題に偏っていたのである。キリスト教においては、神は人間を神の形として作られた、人間だけが特別なものであり、動物も自然も人間のために利用するだけのものに成り果てたのである。人間もまた最後の審判の日にキリスト教を信ずる者だけが救われ、それ以外のものはゲヘナの火に焼かれて殺されるのである。イエスキリストは人間の原罪の贖罪のために十字架の上で磔刑により殺された。ここに大いなる人類に対する愛はあるが、3日後によみがえり天国に行った後、神の国を建設するためにいつの日かこの世に神として再臨する。その時に最後の審判が人間に下されるのである。
この神はあきらかにキリスト教以外のものには不寛容である。

これに対して仏教、特に大乗仏教の思想は大きく異なる。日本とチベット以外の仏教は僧侶の悟りだけを求める「自利」という小乗仏教であり、基本的に考え方は大きく異なる。大乗仏教では生きとし生けるものの全てを救うという「利他」の思想が大原則に存在する。そこでは仏教徒以外のものも植物も動物も、さらには山や川という自然までも含まれる。この慈悲という考え方は西欧の思想と根本的に違っている。平安時代以来の天台、真言から鎌倉時代の天台から派生した浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗などの全ての宗派の基本には利他の精神が必ず存在する。また生の悦びを否定する「無」だけの考えではない、生の肯定という大原則も存在している。あらゆる意味で仏教の思想は西欧の思想よりスケールが大きい。 仏教を単なる葬式という儀式というものだけとして考えてはならない、そこにある思想を、再度、見るべきである。

今、我が国のみならず、西欧の進歩史観によって物質的な進歩というだけの名目で突き進んできた世界は、明らかに精神的な行き詰まりにある。原発の行き過ぎた展開などもこれにあたるのではないだろうか。我々は優れた精神的な思想を過去の歴史に持っていた。この慈悲の思想と西欧の闘争という思想をつないだ新しい思想を作るべきである。世界を救うためには闘争だけの思想ではできない。我が国の過去の優れた精神的思想を見直すべきである。

今の政府のあり方、政治の状況を許せるのか

現在の大連立騒ぎは何なのか、本当にあきれたものである。マスコミも野党も小沢一郎に対しては説明責任を果たしていないなどと大合唱していたが、一体この大連立で何がどう変わるのか国民には何の説明もない。これほど国民を馬鹿にしたマスコミ、菅直人政権、自民党の体たらくは絶対に許せるものではない。国民の多数が何のために政権交代を選択したのか意味が分かっていないのか。それを全て無視して政策を実施してきている菅直人政権に対しては何の説明責任も責任も問わないマスコミ、これだけを見てもいかに日本のマスコミが官僚の手先であるかが分かる。国民の生活が第一という政策を無視し、官僚の政策が第一の菅直人には説明責任をなぜ求めないのか、本当に腹が立つ。

民主国家の基本は主権在民である。国民が選択した意思を無視させるために平気で情報操作に加担するマスコミは絶対に許されるものではない。子ども手当ひとつとっても政権交代以後の「ばら撒き」などと言う造語によるネガティブキャンペーンは未だに続いている。自民党や公明党は自分たちが過去にこの問題を放置した事の責任回避のために「ばら撒き」非難によって効果を無くそうと必死になっている。ついには児童手当を拡充せよなどとこいつらが、恥も忘れて言い出している始末である事に驚いたのは私だけだろうか。国民のことなど何も考えず自分たちの責任回避に躍起なところは官僚のやり方そのままである。これがこの国の政治の現実なのだ。

福島原発の事故に対する政府や原子力安全保安院、厚労省、農水省、等の対応の酷さは完全に国民を無視している。全てを東電の責任に転嫁して自分たちの責任を回避している官僚たちのやり方はあまりにもひどく許せるものではない。現実に事故に至ったのは問題だが、その基準を許したのは誰なのか? この根本の問題を誰も指摘せずに毎日出てくる現象面だけで東電を責めている。放射能の規制値が上回っても、言っているのは壊れたレコードのような「直ちに健康に被害が出るものではない」という責任逃れだけの言葉ばかりで具体的な行動はしない。発表している放射能数値は外部被ばくや内部被ばくという複雑なメカニズムさえ説明せずに安全、安全と嘘をついている。これがこの国の現実なのだ。もはや信じられるのは中部大学の武田邦彦教授の以下の意見だけである。いかに国の意見とかい離しているかを良く見るべきだ。http://takedanet.com/

全てを考えれば、政権交代により既得権の喪失を恐れた産(マスコミ等)・官・自民党の大連合による世論操作や情報操作による鳩山・小沢ラインの国民の生活が第一という政策潰しであったことは明らかだろう。それに輪をかけた菅直人とその同調者たちの裏切りにより混迷がさらにひどくなっている。我々は現実の些末な問題に騙されず、本当に政権交代で望んだ国の形と、あるべき政策の実現のためにもっと声を上げたり行動すべきである。菅直人政権の延命のための大連立などと言う暴挙は絶対に許してはならない。あらゆる機会、手段により声を上げ国を変えよう。

あらゆる政策には光と影がある

新しい政策をすると必ず既得権を持った者に対しては影ができる。それを嫌うために、そのような政策に対する世論操作での対抗が開始される。この最たるものは、政権交代直後の鳩山元首相の辺野古移転に関するマスコミによる「対米関係が壊れる」の大合唱である。あの異常なまでの連日にわたる報道は何だったのであろうか。せっかく対米関係を対等なものに見直し、普天間飛行場の辺野古移転を県外、国外に目指そうとした試みを、マスコミは「影」となる部分だけを取り上げて国民を騙したのである。その背後にはもちろん自民党や官僚たちが存在していたことは明らかであろう。それにしても国民というものはいい加減なものである。沖縄の米軍基地への負担については平気で無視を決め込んで、いとも簡単にマスコミによる世論操作にごまかされてしまった。

どのような政策であっても必ず光と影は存在する。特に我が国のように、自民党という官僚と一体化した「官僚社会主義政党」の長きにわたる一党独裁が続いた状態では、今回のような本格的な政権交代が起これば、あらゆる場所で陰の存在が顕在化するのは当り前であろう。既得権を持つ官僚、関係企業、団体などが何かにつけて反対の声を上げたり、ひそかに国民に対して情報操作や世論操作を行う事は当然に出てくることは予想できたことである。それを何も考えずに新しい政策を実行しようとしたところに民主党の稚拙さがあったのであろう。それに輪をかけて稚拙であったのは大多数の国民である。政権交代すれば全てが短時間でバラ色に変わるかのような錯覚があったことは明らかである。殆どの国民は政権交代というものが初めての経験であるからある程度は仕方がないとしても、国家の形態を変えると言う事がいかに大変であるのかという自覚のなさはその幼稚さを露呈したものである。さらに、これに輪をかけて状況を悪化させたのは菅直人とその同調者たちの国民に対する裏切りである。国民の生活が第一という大原則の政策を完全に否定し、元の自民党と同じの官僚主導の政治形態に戻したことは絶対に許されるものではない。

今、国民は何を信じればいいのか完全な閉塞感の中にいる。加えて東北・東関東大地震という国難を迎えて、政治はますます混沌としている。政権交代の影の部分は菅直人の出現によりますます大きく喧伝され、以前のような国民に対する世論操作さえ必要がなくなるほど大きくなっている。自民党との大連立などを目論むような状態にいたっては、民主党はその存在意義さえ失ったかのようである。今、本当に求められることは政権交代時の本来の趣旨に戻る政策を実行する内閣の実現と、その実行を一からやり直す事であろう。自分たちが失敗した原因を正しく分析し、何をどのように行い、いつまでにするのかという工程表を国民に対して明示する事である。そこで起こりうる影の部分についてもしっかりとした考察のあるものでなければならない。多数という数だけに頼るような奢ったやり方は必ず失敗する。しかしながら、いったん決めた事は断固として進めるという覚悟は絶対に必要である。マスコミの異常性はすでに明らかになった。過去と違い、国民の大多数は既存のマスコミ以外で情報取得をできる環境にあるし、その影響の大きさも認識している。二度と過去の自民党による官僚社会主義に戻してはならない。政権交代の本当の成果をもとめ、国民も含めてもう一度初めからやり直すような努力を期待したいものである。政策によってできる光と影の問題を正しく認識し、この国を本当の意味の民主国家に作り直すべきである。

精神的なバックグラウンドを無くしている日本人

仏教という思想の復活を述べると多数の人がバカにする。大多数の日本人はこの優れた宗教の背景にある哲学的な思想を知らない。仏教が葬式という行事だけのものとしての認識しかないからだろうし、仏教界も思想的な啓蒙を怠っているからでもあるだろう。しかし、だからといって我々がその本質を知らずしてバカにするという態度には賛成できない。逆に武士道という言葉には異常な高揚感を持つ人が大多数である。けれどどれだけの人がこの言葉の背景にある思想的なものの歴史とか内容を理解しているのであろうか。国民が高揚感を持つその原因は海外、特に欧米での評価が高いというだけで喜んでいるのではないだろうか。同じ現象は仏教でも「禅」についてだけは評判がいい。これも明治時代に語学の天才でもあった禅僧である鈴木大拙という人が英語による啓蒙活動を行い、禅というものの評判が欧米で高まったことからの逆輸入現象である。哲学的な学問は欧米のもの一辺倒であり、日本的なものや東洋的なものはほとんど無視されている。日本人は明治以前の過去の精神的文化を全て棄て去ったかに見える。

我々の中には依然として明治以来の、西欧こそが進んだ文明であり日本は劣っているという潜在意識が存在したままである。確かに明治維新によって急速に西欧化させたことと、精神的なバックグラウンドは国学を背景とした平田神道に基づいた国家神道による富国強兵により列強国への仲間入りを短期間に果たすことができた。しかし、その成功は江戸期までに存在した武士階級や一部の商人階級に存在していた儒教や仏教などの高度な精神的思想と高い教育の蓄積があったことを見なければならない。その証拠は、これらの思想的な持ち主がいなくなるとともに、我が国は単なる西欧の植民地的な考えによる周辺各国への侵略や、太平洋戦争への突入という愚かな行動に突っ走ったことを見れば明らかである。敗戦によってもたらされた制度としての民主主義は国民に「国家」という重しからの解放は与えたが、その本当の意味の重要性は認識されてこなかった。とにかく荒廃した国家の復興と、先進国に追いつけ追い越せという、第二の明治維新のような事が官僚主導による全体主義的な国家体制により成し遂げられた。確かに経済的には奇跡的な復興は遂げられた。しかしながら国民は豊かになったであろうか。

バブルの崩壊以来から現在に至るまでの我が国は迷走したままである。経済的にもGDPでは中国に抜かれたし、物づくりという伝統的な製造業についての神話も、コスト競争により過去のような成功は到底達成できない状況にある。政治的には過去からの制度を変えられない官僚社会主義の弊害が続き、民主制度は大きく歪められて官僚への権力集中が続いたままで何も変わっていない。国民の考え方には依然として西欧の物質的な進歩史観が中心なものばかりであり、精神的なバックグラウンドとなる思想が存在しない。過去には考えられなかったような無差別殺人や若者の結婚観の変化などから来る急速な高齢化社会が迫っている。地方の疲弊はひどく、大都市との格差は一向に改善されない。長きにわたる自民党による独裁が終わる政権交代が実現したかに見えたものは、菅直人政権によってみごとにぶち壊された。日本中に閉塞感が充満している。

戦後以来、国家の教育に道徳は存在しない。科学技術という西欧の進歩史観に基づくものの重要性ばかりが声高に叫ばれて巨額の税金が毎年消えている。政治のなかに政治家が見えない状況がずっと続いている。全ては過去のママが正しいかのような政策が続き、国家の形を変えるような新しい試みは官民、特にマスコミ、既得権を持つ者により潰されようとしている。この国はどこに行こうとしているのか、我々はどのような存在であるべきなのか、誰も根本的な問題を述べない。正しい精神的なバックグラウンドを持たない人間が何を言ってもダメなように、単なる経済的な問題だけを述べているだけで国は作れない。優れた精神的な思想があったことを我々は気が付かなければならない。その優れたものを取り戻すことこそが国を変える原点である。

知識人とか専門学者の見解こそに偏見がある

何か政策や法律を決める時に決まって使われるものに、専門家による諮問会議とか知識人による見解によるものとかで物事を決めようとすることが多用されている。我々は、一見もっともらしいこの官僚たちのやり方を絶対に信用してはならない。大多数の知識人とか言われる人々は学会とか、大学のある教授や研究者の過去の確立された見解を中心にした人間の意見に過ぎない。これらの人々は一般の会社や我々の生活と比べて驚くほど狭い世界で生活している。極端に言うと、その師と仰ぐ人による学説に異を唱える事すらできない。したがって考え方が非常に限定された見方に偏る。これは古事記や日本書紀の解釈において、国学としての本居宣長による解釈が正当であるとする学者たちや、津田左右吉による超国家的な歴史観によるもの以外を一切認めないというような学者たちに見られるものに代表される。そのために記紀の解釈は長い間ほとんど進んでいない。違った考えをすれば学者たちは排斥の運命に合うとともに生活まで危うくなるのである。

この状況をさらに悪くしているのは官僚たちによる補助金を使った大学や研究者たちへの恣意的な介入による統制である。現在ではほとんどの大学は文科省の天下り先に成り果てているとともに、一般職員にまで文科省の職員が入り込んで統制を強めている。かたち上は科学技術の振興というものや教育制度の充実などのもっともらしい名目で巨額の税金が官僚達の恣意的な采配で大学や関係する学者、教授たちにばら撒かれ、何か法律を作る時に都合の良い人間を諮問委員とか専門家という形で招集されて法律が作られてゆく。この最たるものは現在の福島原発の事故による放射能の汚染問題を見れば明らかだろう。野菜の汚染や地域の放射性濃度の問題、土壌や水道、海洋汚染について御用学者たちは一様に何を言っているのか、賢明な国民はもう気づいているはずである。それは東京電力による関係大学への補助金だけではない、関係する各省庁からの補助金による支配構造がある事を見なければならない事は明らかなのである。これは原子力発電行政だけではない。その他のあらゆる官僚たちの利権に関わる事業の殆どに関係する知識人という名目の委員会に利用されているのである。

このような状況を打開するのは小沢一郎が主張する政治主導に他ならない。官僚機構は変化を嫌うし、連綿と続く過去の形を変えられない。この積み上げが膨大な現在の無駄な事業という結果である。それが長きにわたる自民党と一体化してきた官僚社会主義の現在の結果なのである。全てを壊すには政治主導が求められているのである。それをもとの官僚主導に戻している菅直人政権は絶対に許してはならない。我々は政権交代の当初の目的に立ち返る意味でも菅直人政権の不信任を求めなければならない。過去にない国難の状況の中での増税とか、自民党との大連立などを絶対に許してはならない。今ほど国民の生活が第一が求められている時があるだろうか、頑張ろうではないか。
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