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日本人として、人としてどのように生きるのか

政治の混迷とかいう報道にあふれているが、この国では教育問題は殆ど話題に上らない。教育がどうあるべきかは全て文科省に丸投げで、まるで明治時代のような国家主義のままである。本来は国民の代表者である国会議員たちの議論によって決めるべきものなのに、国会議員たちも官僚のお膳立てによる御用学者主体の有識者会議などに丸投げのままである。

我が国は太平洋戦争の敗戦による民主主義の導入以降も国家の目標は変わっていない。相変わらず西欧思想と科学技術が至上命題のままである。教育も数学と外国語、特に英語に対する重点教育が続いているし、近年はますます理工系へ重点を置き始めている。一方、文科系教育、なかんずく道徳的なものの教育は殆ど無いに等しい。そこには明治以来、連綿と続いている日本古来からの思想の放棄からくる何に価値を求めるかという大命題の欠如がある。明治時代には日本古来の神道を、国家の統一と国民の統制のため、天皇を神とする国家神道という全く違った物に作り変えて思想的なバックグラウンドを作り上げた。教育は、これに基づいた富国強兵をめざし、道徳観も国家神道により教育がなされた。明治維新は過去の価値観や道徳教育による高い公の概念を持った武士階級出身者たちにより成功した。

太平洋戦争に突入したのは、明らかにこれらの武士階級出身者がいなくなるとともに出てきた、新しい道徳観を持った新世代の日本人による、西欧諸国が行った過去の植民地主義的な覇権主義の必然的な結果である。西欧思想は人間至上主義に基づき、動物も自然も人間のために全て利用するものとしてしか存在しない。人間以外は単なる物質として扱われ生命の存在を考えない。科学技術により強力な軍事技術や機械の発明により西欧以外の国々を侵略、征服して繁栄を果たしたが、20世紀以降は明らかにこの考えには行き詰まりを見せている。戦後の日本は民主主義が形だけ導入されたが、思想的には明治以来続いた西欧至上主義のままである。そこには過去に存在した本来の神道や仏教による優れた思想を放棄したままの西欧思想に基づいた物質文明の追及しかない。道徳的に何をよるべとするかの国家的な議論がないため、我が国に伝わる優れた過去の道徳観は日ごとに失われている。

現在の日本において仏教のことを言うだけでバカにする人が殆どである。本来の仏教思想を教育されてもいないし、学者や評論家などの有識者と言われる人々もその思想的背景を驚くほど知らないし、また知らない事を恥ずかしいとも思っていない。西欧の思想は勉強するが、自国の思想を知らずに何の不思議も感じない異常な状態が続いている事すら意識していない。仏教は単なる葬式のためにだけ存在し、そこに存在する深遠な思想を語る事もない。神道は国家神道が神道のように誤解され、本来の神道についての言及さえない。靖国神社の問題も、この延長上で考えれば明らかに国家神道という明治期の富国強兵のための手段であったことを見なければ正確に語れないのに、今日まで誰もその事は語らずに単なる政争の具になったままである。神道そのものについての議論も、本来の万物全てに神が宿るという原点に返った議論が必要である。

西欧の怒りと闘争に基づく物質文明的思想は完全な行き詰まりを見せている。戦争はいつまでたっても無くならないし、自然破壊も止まらない。今、必要なのは西欧の科学技術に基づいて存在する優れた技術と、西欧思想以外の人間以外の動物や自然の全てにも神を見る新しい思想との融合である。人間、特に西欧人だけが優れたものとする傲慢な思想では世界は何も変わらない。我々が過去に持っていた仏教という優れた思想を少しでも学べば、その考えがいかに優れたものであるかに驚くだろう。何も学ぶこともなく、単に仏教というだけでバカにしている人々は人間の意識という概念においてさえ、2千年以上も前から現在の西欧思想で考える意識を越えた考えがある事に驚くだろう。仏教は「無」の思想だけではない、大いなる生の悦びと共に人間の業という深い洞察がある。日本人として、人として何を道徳の規範として持つべきなのか、今こそそれが求められている時はないだろう。

御用学者とは何なのか

福島原発の事故によって「御用学者」というものがにわかにクローズアップされている。政府や官僚に都合の良い情報だけを発信する者たちである。これらの御用学者たちは原発だけのために存在しているのではない。官僚たちに都合の良い法律作成のために「有識者会議」とか「専門家委員会」などに駆り出されている者たちと同類である。現在の日本の大学は国立大学をはじめとして、殆どの大学に官僚たちの補助金政策により言いなりにされている。この国には学問の自由も無くなっているのが現実である。国立大学などを見ればどれほどの天下りや文科省の職員が派遣されているか驚くだろう。さらにひどいのは科学技術の振興という名目での巨額の税金が、意味もなく研究者というものたちにばら撒かれている事である。この国は税金をばら撒いても成果の報告も公表されないし、税金で得られた成果がどのように国民に還元されているかも明らかにしていない。明らかにできないのは、成果を得た研究者たちと、それを媒介した独法などの天下り機関が勝手に収益を得ているからである。何のことはない、税金で何かを開発し、得られた成果は自分たちだけで独占して税金を負担している国民へは何の見返りも提供していないというひどい構図が出来上がっているのである。

民主党に政権交代して事業仕訳けを行った時、科学技術関連の事業の削減を目指した時にノーベル賞の受賞学者が「歴史の法廷」などと偉そうに豪語して削減に反対したことを覚えている人は多いだろう。何のことはない、この男も独法の役員に名を連ねており自分の既得権が無くなるのを恐れてパフォーマンスをしたに過ぎない。今の日本には自然科学を除けば碌な学者がいない。哲学や人文科学などは、少数の学者を除く大多数は西欧の学説を紹介するだけの解説者に過ぎない。梅原猛という優れた哲学者が指摘するように、我が国の学者というものは自らの仮説を唱える事ができず、従来からの学説というものの範囲でしか物事を考えない。結果として学問としての進展がなく、既存の考えから抜けられない。このような環境の中で、どんなに巨額の税金を使って科学技術のためとか言って学者たちにばら撒いても、その得られる結果が殆どない状態なのを官僚たちはひた隠しにして、税金の使用による自分たちの既得権を離さない。毎年、3兆円もの巨額の税金がこのために浪費されている。子ども手当がばら撒きと非難される中、マスコミも野党も、民主党の中でさえ作られた世論を恐れて誰もこの巨額な科学技術予算の見直しを唱えない。我々は、我々の払った税金で、我々を騙して学者たちや官僚たちだけに都合の良い制度や法律のために、これらの者たちを養っているようなものである。税金が機能しない日本の典型である。

このような例はほかにもいくらでも存在する。高速道路は税金と我々の支払うバカ高い料金によって官僚たちの天下りのための制度や組織の維持に使われる。空港や港湾などは特別会計という名目で官僚たち公務員のための組織のために税金が使われ、無駄が発生しても誰も責任を問われない。こんな構図が日本中のあらゆる公的インフラに組み込まれて、我々の支払う税金は我々にはほとんど使われていない。高いインフラコストは企業の競争力を阻害し、工場などはどんどん海外に移転するのは当り前であろう。こんな社会主義国家では二度と経済的な発展はありえなくなっている。御用学者バンザイという国になってしまったことを良く考えるべきだ。

世界で最も無責任であり無能な日本の官僚制度

わが国の公務員制度にあって、国家公務員の中の官僚制ほどひどいものは、中国の清時代まで続いた儒教をもとにした「科挙」の制度と同じだろう。変化を否定し国民を治めるためだけの制度としての儒教が中国の近代化を阻んだことは歴史の事実である。中国にあった偉大な文明を過信し、動き続けていた世界の歴史を正視しなかった事から、結局、清朝は亡ぶとともに中国そのものが西欧列強の植民地化されたものとなったのである。

これに対して日本の明治維新は全く逆の対応を取った。そこには儒教は制度ではなく、武士階級に中の学問としてだけ存在し、中国のような閉鎖的な社会になる事はなかった。徳川幕藩体制は中央集権ではあっても地方分権が確立した連邦国家のような形態であった。各藩は自治権が確立しており独自の経済と法律に基づき運営されていた。鎖国状態の中でも、幕府を含め各藩においても諸外国の情報は豊富に持っていた。従って、西欧列強の技術、とりわけ武器や艦船などの技術的な情報は豊富に持っていたし、中国の例を見て、我が国が西欧の植民地化になる事を避けるという考えは、当然のように共有されていた。武士階級には儒教教育の忠孝の精神により、厳然とした公私の区別を持った高い「公」の精神が培われていた。この事が明治維新を成功させたことは間違いがない事実である。日本は西欧化の道を取るために徳川幕府から明治維新へと大きく変化したのである。

しかしながら、逆説的には西欧至上主義による国家の富国強兵策は、過去から連綿と続いた仏教や儒教思想を忘れさせ、「公」の概念が徐々になくなる世代へと交代するにつれて、国は誤った方向へ突き進み、最終的には太平洋戦争の敗戦へと向かわざるを得なかった。戦後は連合国から強制的に民主主義という制度が導入されたが、結局は形だけのものが制度として入り、実態は官僚社会主義的なもののまま現在に至った。その原因の多くは明治以降から続いた西欧至上主義の上に、敗戦からの復興を目指して作られた全体主義的な国家体制である。勤勉な国民により、急激な経済復興が達成されたが、逆にその成功が官僚による暴走の一因となった事も歴史の皮肉と言わざるを得ない。

制度として移入された民主主義は個人主義を加速させたが、明治以来、我が国が捨て去った仏教や儒教、国家神道ではない本来の万物に神を見る神道などが無くなった事による道徳観の消失は、官僚社会主義による「公」の観念のない者たちによる権力の暴走に歯止めをかける事が無くなり、ひどい形の歪んだ国家を作り上げてしまった。現在の日本の官僚制度は「無謬性」という神話を自ら作り上げたが、それは変化を認めないと言う事と同義であろう。彼らは責任を取る事をしない。逆に言えば、変化する事をしない事を意味する。変化とは過去のことを変える事であり、変える事は過去の過ちを認める事に等しい。無謬性という呪縛の上で、日本の官僚たちは変化を受け付けない。それは過去の中国の科挙制度に基づいた官僚制度と同じである。結局、本来、民主主義では国民主権なのに、それを無視した官僚制度によって国が運営されている結果、我が国は変化ができない閉塞的な国に堕したのである。このような無責任で無能なものにでもできる制度のままで国が運営されていくなら、この国が三流以下になるのは確実であり、現実にそうなりつつある。

我々は座してこの制度を見て見ぬふりを続けるのか、それとも大きく国を変えるのかを問われているのだ。本当に良い国にするためには何が必要なのか、国民一人一人が考えなければならない重大な時を迎えている。それは自民党とか民主党とかいう問題以前のことである。 西欧至上主義的思想は世界中の至る所で破綻をきざしている。変化を認めない日本の制度も破綻をきたしている。過去から続いた日本古来の思想の放棄は道徳の放棄にもつながり、この国がどこへ行こうとしているのか国民自体にも見えていないように見える。歪んだ司法制度や腐敗した検察、警察機構は国民の権利を蝕み、国民の閉塞感をますますひどくしている。国の形を変えるのは国民一人一人の力以外にはなしえない。何が必要なのか、自分たちの力が試されている。我々の税金で生活している公務員たちの制度を一新し、真の民主国家にできるかは我々次第なのである。変えられることが嫌な公務員達は公務員を辞め、自ら稼いでみるべきである。税金で生活するものに「公」の意識が無くなった時点で公務員の資格はない。ましてや私利私欲だけに走る公務員など論外である。それを許しているこの国がいかに狂っているのか、情けない国民になったものだ。

政権交代して何も変わらないなら意味がない

誰もが同じように言っている事、それは菅直人政権の政権交代時の公約違反である。一番の問題は自民党と同じの官僚依存政治に戻した事であろう。一体、国民が何を期待して政権交代のために一票を投じだのか何も分かっていないようだ。特にひどいのは増税のために与謝野という元自民党の議員までも大臣にして受け入れた事だろう。これほどひどい例は自民党時代の社会党党首を首相にした事に次ぐものだ、あきれ果てたのは自分だけではないだろう。その時のマスコミの対応にも驚いたが、懲り国ではマスコミは国民のことは何も考えていない事が一層明確になった気がする。

原点に返って政権交代の意義とは何であったかを真剣に考えるべきである。戦後以来続いた自民党と官僚の一体化した官僚社会主義がこの国の発展を阻害してきたことは、もはや疑うべくもない事実である。高度経済成長で成功したかに見えた国の運営はバブルの崩壊によりあっけなく潰れ、以来30数年間低迷したままである。全体主義的な国家運営は安い人件費の状態の時には機能したかに見えたが、それが無くなった時点で何も変えようとしない硬直した政策を続けていた官僚社会主義政策が原因で、社会も産業も変革ができずに過去を引きずったままどんどん行き詰まりに向かっている。その象徴が、何十年も前から問題視されていたのに何の対策もないまま放置された少子化という国家的な大問題の放置である。人口の逆ピラミッド化はすでにボディブローのように深くこの国を傷つけているし、将来的な国の運営も困難なものにしている。その現実を無視するかのように、相も変わらず自民党、官僚、マスコミの大連合は「子ども手当」というものをばら撒きと非難し、自分たちの無策を隠そうと必死になっている。

財政問題はもっとひどい。政権交代の約束である公務員改革や天下り先などの無駄の排除や特別会計の一般会計化、地方分権などの問題を菅直人政権は全て無視し、税と社会保障の一体改革などと言う官僚の作ったシナリオに完全に乗っかって国民を欺こうとしている。どこの国が税金を国民のために使わないで増税など提案できるというのだろうか。また沖縄の基地問題も辺野古の移転に代表される米国追従政策に戻し、沖縄県民無視の政策に変更した。世界は過去の発展途上国と言われた国々の経済成長により大きく変わっているのに、日本の官僚的な考えで何も変えようとしない硬直的な政策のままでますます閉塞感を増している。一体、何のための政権交代であったのかと誰もが思うのは当たり前の酷さである。

今、東日本大震災という未曾有の危機の中、その復興に対する政策においても菅直人政権は何の政治的主導性を発揮していない。福島原発の事故についても迅速な対応もできず、他の原発のあり方の見直しもしようとせず、単なるパフォーマンスにも等しい浜岡原発の暫定的な停止の要請だけでお茶を濁そうとしている。すでに東日本の広範囲がたった一つの原発事故だけで広範囲に汚染されているのに何たる危機感のなさなのか、政治家としての資質のない事を証明した。国民の安全のために国家的な方向転換も決断できないものに国を任せるわけにはいかない。我々は政権交代の意義を再確認するためには早急な倒閣運動をする必要がある。公約違反をした政治家に政権を維持する資格は何もない、直ちに辞任要求するべきである。国を変えるために時間がかかっても、兎に角、過去から続く官僚社会主義を変えなければならない。

辺野古移転を断念する米議会・・・民主主義が機能している

マスコミはことさら何事もなかったような対応で報道しているが、民主党による政権交代時に鳩山政権が表明した辺野古移転の県外、国外に対して「日米関係が壊れる」と大騒ぎしたことは何だったのか何の報道もしない。ましてや御用学者や官僚上がりの評論家たちの辺野古へのこだわりはもっと異常であったのに、今回の米議会の嘉手納への統合については何の意見も見えてこない。この大騒ぎの原因は、明らかに官僚たちがいったん決めた事の変更に対する異常なまでの抵抗であった。自分たちの無謬性などという愚かしい優越感のため、国民や沖縄県民の意思などは一顧だに顧みられないやり方にマスコミは同調し、愚かな国民までが鳩山政権への非難に同調した。

米議会の辺野古移転への反対は東日本大震災に関わる多額の財政負担を根拠にした合理的な決定であろう。ここでは民主主義が機能し国会議員たち自らの判断で政策変更を決めている。もちろん決定内容は沖縄県外ではないものの、大きな変更に変わりはない。議会は予算執行権限を持っている事から辺野古移転は事実上不可能になった事を意味している。日本政府と米国政府は辺野古移転は変えないと言っているが、実態は変えざるを得ないものになるだろう。

このような国会議員主導の政策決定こそが民主国家の在り方であり、いったん決めた事はテコでも変えないという官僚社会主義的な日本のやり方こそが異常なのである。日本でこのような決定があったらマスコミは何というだろう、結果が見えるから笑ってしまうのは自分だけではないだろう。多分、日米関係の決定を覆す暴挙とか、安全保障に対する意識の欠如から来る決断、などの可能な限りの罵倒にも似た報道が繰り返されたに違いないだろう。

どのみち辺野古の住民には朗報に違いないが嘉手納周辺住民は納得しないだろう。米国の決定に盲目的に従ってきた日本のやり方はもはや通用しない事は明らかになっている。ここは辺野古も嘉手納も住民にとっての反対は同じである事を明確にし、移転先はグァムをめざして交渉を開始する良い機会にするべきだ。正当な主張ができない外交は相手からバカにされて相手にされなくなるだけである。いい加減に過去の自民党時代の米国に対する盲従政策を変えるべきである。世界はすでに米国一極主義では回ってはいない。いつもでも時代遅れの外交をしていては世界中の笑いものになるだけである。
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