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仏教の思想を知ろうともしない国民へ

仏教は葬式だけのために存在するものではない。大多数の国民は、明治の廃仏毀釈という神仏の分離政策による国家神道のための国策によって、仏教思想の何たるかを考える機会を失ってしまった。もはや学校などでの公的教育の場では過去からあった仏教や江戸期の儒教の思想までもが無視され、それが現在まで連綿と続いている。殆どの人は宮沢賢治の童話が法華経の理念のもとに書かれている事さえ知らない。彼は熱心な日蓮宗の信者であった。日蓮宗は法華経をその教義の基本においている。

仏教はインドでお釈迦様が創造した思想が始まりで、中国、百済を経て奈良時代に日本に伝えられた。自分の悟りを開くだけの小乗仏教といわれるものから、自分だけではない全ての人々を救済するという大乗仏教に発展し、それが日本に伝えられたものである。現在の仏教国といわれる国々は、日本とチベット以外は全て小乗仏教だけであり、その思想は異なっている。仏教が分かりにくいのはキリスト教や回教などと異なり、一つの聖書のような統一された教義のものがない事である。多数の宗派があり、各々の教義は異なって複雑に見えるため説明が困難になっている。そのため余計に仏教そのものを正しく理解する事が困難になっているのであるが、どの宗派であれ基本的に底流を流れている考えは同じものなのである。日本における仏教の根底にあるものは、大宇宙の生命というものの存在、それを認め、その生命の深い喜びを認め信じなさい、と同時に人間の中の深い業(ごう)と呼ばれる闇の部分の考察にある。この大宇宙の生命というものは人間だけではなく動植物や山川などの自然にも存在し、それを仏と呼んでいるのである。欲望を棄て去り煩悩と呼ばれるものを棄て去った事を悟りと呼び、その獲得だけのためのものを小乗仏教と呼び、自利のための仏教とも呼ばれる。これに対して大乗仏教は利他、すなわち自身だけでなく全ての人を救う衆生救済という考えのものである。

仏教伝来時のものから、中国の唐時代になって日本に持ち込まれた平安仏教から二大宗派の天台と真言というものが最澄と空海により作り上げられ日本仏教の基礎が作られた。なかでも天台はその後の鎌倉仏教といわれる浄土教や禅、日蓮宗などの全ての母体である。真言は真言密教を母体にした自利に近いものであるが、宇宙の生命である大日如来を母体とした人間を自然と一体化した考えを持つものである。これらの思想が平安から鎌倉を経て広く日本中に広まり、わが国の思想の中に深く根を下ろしてきた事は否定できない事実である。その思想には様々なものがあるが、なかでも唯識といわれる意識の考察は、現代の西欧思想を上回る考えが2千年以上も前から述べられている。西欧での意識の考えに無意識といわれるものが考えられたのは19世紀頃であるが、仏教の唯識では眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、という5感に相当するものと、それを統括する意識、さらには無意識に相当する末那識(まなしき)があり、そのうえに我々が見た事もない景色にあって、なおかつ懐かしいなどと感じるDNA的に引き継がれた宇宙の生命的な感覚である阿頼耶識(あらやしき)というものまでの多彩なものがある。これだけをとっても仏教思想は西欧と異なり、もっと深いものがある。人間の業を見つめるものはさらに深い。それらの思想を近代日本人は全て無視して、西欧の思想こそが至上のものであるとして理解さえしてこなかったのである。殆どの知識人たちは西欧の思想の紹介者に成り果て、自国の持っていた思想を知らなくても、当たり前のように時代遅れのものと勝手に決めつけて、長きにわたり無視してきたのである。

以上が明治以来の我が国の過去の思想を無視した流れの反省の必要性の根拠である。この事は仏教が正しいとかいう事を述べたのではない。過去の自分たちの持っていた思想を知ろうともしないという、その反省がない限り、自国の思想の正しい評価も、新しい思想も作る事は出来ないという提言である。政治の事においても、その本質的な理解なくして本当の民主国家が作り上げられないのと同様である。我々は与えられた情報だけではなく、自分自身で真実を見つけるという姿勢を常に持つべきである。

何を基準に国の行く末を考えるべきなのか

日本の原点とは何か、それを論じる人は少ない。天皇が日本の原点という誤った考えは多い。天皇というものは天孫降臨という神話に基づいているように、日本にもとからいた原日本人である国つ神、すなわち縄文人を祖先に持つ原日本人が、天つ神すなわち中国から朝鮮半島を経て渡来した弥生人に国を明け渡したように、渡来人が大和王朝の元をなすものである。この渡来人が原日本人との混血を繰り返したものが今の日本人になっている事はDNA的にも証明されている。従って、明治時代に作られた天皇を神とする国家神道というものは捏造された富国強兵のための国民をまとめるための神話に過ぎない。

ここで述べたいことは天皇制の非難ではない。戦後は天皇も過去と同じに神ではなく象徴的な存在に戻った。それはそれで元のさやに納まっただけであり、天皇を尊敬するとか天皇制をどう考えるかは国民が個々人で判断する事である。しかしながら過去の国家神道の遺物である靖国神社問題を政治問題として見る事は大きな間違いである。ここは明らかに天皇教のために戦争で亡くなった多数の遺族の事を考慮すべきである。間違った国家神道が正しいものと教育されて戦争のために死んだ方々を、後の我々が国家神道が間違っていたから靖国を参拝する人々も間違いだと安易に非難できるのだろうか。そこには正しい歴史認識を時間をかけた教育がなければならない。靖国問題を国家神道の問題として正しく教育してこなかった我々の責任が問われるのである。

繰り返して明治以来のわが国の歴史を述べているのは、そこに今の我々の原点が見られるからである。西欧の科学技術による武器や機械というものなしに、日本という国が西欧諸国から侵略されないという保証は全くなかった状況で、明治維新という国家体制は西欧思想とその科学技術の移入が絶対条件であった。それによって日本は世界の列強に短期間で仲間入りが可能になったのである。その代償は、過去から続いた我が国の伝統的な思想や制度の無批判的な徹底的な排除であった。我々は心の原点を捨てざるを得なかったのであるが、戦後になってもその反省が未だになされていない事に危機感がなさすぎるのである。西欧至上主義で独自の思想を棄て去った国が、一体どのような思想で世界と渡り合えるのであろうか。政治、経済などのあらゆる意味で世界は小さくなりつつある今、自国の確たる思想なき国はどこからも相手にされなくなるであろう。防衛問題まで他国に丸投げ状態で外交などできるわけもないのに、未だに過去の継続だけを続けようとしているわが国はどうなっていくのか、我々はもっと真剣に自国の事を我々自身が考えなければならない。国民の基本となる過去から続く原日本人としての思想の見直しのない安易な徴兵制の議論など笑止千万である。そこには「死ぬ」という事実や「公私のけじめ」とか「慈悲の心」とか「自由の概念」とかの根本問題の議論の欠如ばかりが際立っている。我々は自らの意思を直接国家という体制に反映させず、あまりにも安易に他者依存を続け、しかも物質的な欲望ばかりに偏りすぎた生活を長く続けすぎてきたことを反省すべきなのである。この意見は梅原猛氏による「森の思想が世界を救う」という本をもとに書いている。http://amzn.to/j32utz

正しい歴史認識とは何か

明治維新から今日までの歴史を含めて、戦後以来の日本の歴史教育というものは入試試験のための暗記するだけの貧弱な教育しかなされていない。各時代の出来事の裏にある社会的な要求や思想が欠如している。表面的な事しか教育されない事から来る無味乾燥な試験問題だけのつまらない授業を思い出す。明治100年といわれていたのはつい最近の事である。今日まで我が国がたどった歴史を思想的に語ったものは少ない。司馬遼太郎と梅原猛はその中でも正しい歴史認識を持った双璧といわれるべき人物であろう。この国の学者といわれる人種は明治以来おのれの意見を持たず単なる西欧思想の紹介者にすぎなくなっている。歴史認識においても、過去の正しいと言われる学説を、司馬遼太郎や梅原猛のように超えられない。

日本の近代という概念で明治以降を考える事は非常に大事である。それは西欧化にどのように成功したかを知ることができるとともに、何ゆえに戦争に突き進んだのかという問題で、現在世界で進行中の発展途上国の西欧化の過程を予測できる大きなヒントを得る事が可能であるからである。それらの正しい検証こそが、歴史というものを考える本当の意味なのである。では明治維新とは何であったのであろうか。そこに見られるのは圧倒的な西欧の科学技術文明の優越性に対する完全な屈服による社会の激変である。過去の思想の全てを捨て、科学技術に基づく強い国にするために思想を大きく変えたのである。その成功は、江戸時代から連綿と続いた武士階級という、優れた思想を持った政治家たちの考えた国家体制の変革の産物の見事さによっている。西欧の科学技術の移入のために、教育制度は国家神道という天皇を神とする全く新しい思想を作り出し、その神を中心とした富国強兵に沿って全てが実行され、見事に短期間に西欧化に成功したことは世界にも類を見ないものである。このような変革は官僚的な発想では絶対になしえない。そこには武士階級にあった過去の儒教や仏教などの優れた思想の積み重ねが結実したものと言わなければならない。しかしながら西欧思想の全面的な移入は国家による覇権主義を招き、強い倫理観を持った武士階級出身の政治家がいなくなるとともに、中国などの近隣諸国の侵略から最終的に太平洋戦争に突入という必然的な結果を招いてしまったのである。

この科学技術をもとにした西欧化は、その思想と共に戦後も何も変わらず移入する事が現在まで連綿と続けられている。敗戦による民主主義という制度は形だけが導入されたが、その本質的な理解もなく、国民は物質的利益を求めるだけの西欧的な生活の追及に明け暮れてきた。社会は大きく変わり、自然は「利用」という西欧的な思想のもとに大きく変えられ環境破壊や公害も経験してきた。その最たるものは福島原発の事故に見られるものであろう。明治の国家主義から派生した官僚制度は、まるで中国末期の清朝を滅ぼした儒教思想による変化をさせないための科挙の制度と同じかたちをとったまま現在に至っている。戦後の形だけの民主主義の中で官僚制度は国民から見えない形で実権を握り、この国は変化に対応できない三流国家になってしまった。政治家は自らの責任を放棄し、全てを官僚に丸投げする事で国民を欺いてきた。政権交代して変化を求めた国民は、菅直人政権の誕生によって完全に期待を裏切られたが、大多数の国民はその理由の本質さえ理解していない。国民も自ら考えずに全てを政治家に丸投げしてきたつけが来ているのだ。

世界を見れば西欧が世界の中心で、西欧こそが正しいとする人間中心の思想は完全に行き詰っている。戦争はなくならず、神を捨てた思想は人間性の荒廃を生み、至る所で問題が山積している。その上で科学技術の西欧の独占は崩れ、多数の新興国が物質的な豊かさを求めて西欧化の道を走り始めようとしており、世界はますます混沌としてきている。先進諸国と発展途上国の衝突は、その思想的なものと物質的な豊かさを求める動きの中で至る所で衝突するだろう。すでに環境問題でも原発の問題でも意見の衝突は至る所で見られる。

梅原猛という稀有の哲学者が主張するように、わが国が過去からある仏教や、国家神道ではない本来の神道に見られる自然や動植物などの全てに神を見る思想を見直す必要がある。その優れた思想と科学技術の融合の中に世界の未来を見る事で、わが国は世界を導くことができる思想を提示できるだろう。世界でどこよりも早く西欧化に成功した我が国こそ、その成功と失敗の全てを正しく検証できる。何が正しく、何が間違っていたかを認識する事こそが正しい歴史認識に導くものである。それを行う事で我々は世界を救う事が出来るはずである。日本人よ、もう一度過去を正しく見る事で自信を取り戻そうではないか。

激変する世界、正しい歴史認識のない日本に外交戦略はない

東西冷戦の終了時、わが国は外交や防衛戦略の変更が何もできなかった。官僚に全てを丸投げする自民党政権の元では当然の結果である。官僚機構は変化に対応できない、何故なら過去の踏襲が正しいというバカげた理論で責任回避するからである。新しい出来事にこれほど対応できない国家は世界中でも日本だけだろう。

現在の中国などの新興国の経済的な成功による世界の激変にはどうなのか。案の定この国は依然として米国一極主義から何も抜け出られていない。普天間問題を始めとした米軍基地問題も竹島や北方領土の問題も何も進展できていない。米国議会でさえ普天間の移転問題の見直しが出ているのに、この国はもとの自民党時代の結論に戻しただけの過去の踏襲しかできていない。何のための政権交代だったのか、民主党議員たちの程度の低さには辟易する。外交とは国益を追求する国と国との究極の思想的なぶつかり合いである。わが国にバックグラウンドとなる思想はあるのであろうか、議論さえ聞いたことが無い。経済的な事だけで外交は出来ない。

世界が変わりつつあるのは発展途上国などの経済的な重要性が増している事である。情報技術などの飛躍的な発展と、先進各国が安い人件費をもとめて多大な投資をしてきた結果、各国は飛躍的な発展を遂げ、その成功に刺激された中東諸国までもが独裁体制に国民が反対し、国の形を自分たちの利益の獲得ができる体制に変えようとしている。世界はますます経済的な発展のために自然破壊が進み、それに反比例する意味で発展途上国といわれている国々の国民の物質的な欲望は満たされていくはずである。まさに我が国の戦後の経済成長の時期を見るような事態が至る所で出現しているのだ。過去の日本の状態を見れば発展途上国でこれから起こる事はある程度予測できるだろう。すでに中国では自然破壊が進み、深刻な災害や公害問題が頻発している。自国の利益追求のために他国の領土などへの干渉も露骨に行われ始めている。いずれ東南アジアでも中国と各国の利害が大きくぶつかる事は必定と予測できる。このような事態の裏で米欧は武器輸出などを画策しているだろうし、経済的な利権確保にも躍起になっている事が見て取れる。しかしながら各国の国民はそのような方向を望むであろうか。そこに平和憲法を持つ我が国が独自でできる外交があるはずである。しかしながら実態は米国と共同開発するミサイル防衛システムの販売許可などという全く逆の方向に進もうとしている事に驚かされる。ここにも変わる事が出来ない官僚主導の外交、安全保障の無策が現れている。

すでに官僚思考では外交も安全保障問題も何も解決できない事は証明されている。それを過去のまま踏襲しようとしている政治家たちは無能といわずして何と言えばいいのであろうか。経済的な問題や自分たちの利権などしか考えない者たちばかりが国会議員になっていては国は決して良くならない。戦後から続く心の教育の欠如はこんな所でもその弊害を増している。何の思想もない政策や外交にはどの国もわが国を信用しないどころか、新興国からも冷笑をもって見られるだけだろう。わが国にあった過去の素晴らしい道徳的なバックグラウンドになっていた思想を見直さない限りこの国に未来はない。

加害者が保護されて被害者には何もない狂った国

原発事故により何が起きているのかを冷静に考えようではないか。最も身近な問題はマスコミが騒いでいる「節電」という問題である。なぜ加害者である東電は火力発電などの遊休施設をフル稼働させずに国民に対して節電を要求するのか。そこには官僚たちの原発利権擁護というさもしい考えが透けて見える。政治家はここでも無力で全て官僚の言いなりである。夏季の節電というバカなプロパガンダで、我々の生活や企業活動の制約は計り知れない。何のために加害者を守る必要があるのだろう、国民はあまりにもお人好しすぎる。

次の問題は東電の賠償を助けるという法律である。これほどバカバカしい法律が世界中のどこにあるのだろう。政治家が何もしない典型がここでも見える。加害者の賠償金のために税金を使って機構という名で官僚の天下り組織を作る。そこに官民から金を集めて東電に資金援助するというバカげた仕組みだ。東電は援助された金額をその利益から国に返還するというが、それは電気料金から得るもの以外にはありえないのだから利用者が支払う事になる。何で被害者が賠償金を支払う必要があるのか、これほど人を馬鹿にした仕組みはない、壮大な詐欺が行われようとしている。必要な事は東電や官僚たちの利権確保ではなく被害者補償や汚染された国土の回復である。そこに対して何が行われているのか、補償金を得たら生活保護が打ち切られるという異常な実態は何を意味しているのだろう。除染という国土の回復作業は何も始められていない。やっているのは何なのか、本当に国民はとことん舐められている。なぜ被害者も関係する農業、漁業団体なども提訴しないのか不思議だ。国と東電を徹底的に提訴すべきである。そして被害者が賠償金を払うようなバカな事態が起きないように政治家を責めなければならない。マスコミに対しては節電や東電の生き残りなどの世論操作をしている事をどんどん抗議しようではないか。冤罪の構図とまるで同じ状況が国をあげて起こっている。全ての原発が止まったらどうするのか、という脅しには何の意味もない。企業の自家発電の余剰分を電力会社が使えるようにすれば原発は不要になる。それが分かったら困るのは官僚たちと電力会社だから何もしようとしない。政治家の出番である、何のために高い歳費を貰っているのか、どんどん国民のために働かせようではないか。
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