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禅、この不可思議な世界

禅というものは仏教の中で最も難しい。禅を無というものだけで理解している人が殆どであるが、その理解は完全にお門違いである。小生のつたない理解でも、禅のもとになっている思想は無でも有でもない空というものである事を知っている。

禅は中国で生まれた新しい仏教である。それは過去の大乗仏教の中に存在した、生に対する否定的観念を超える生の肯定という華厳経や密教と同じ思想を持っている。前者との唯一の違いは、自然などを含む現世肯定の問題ではなく、個人の仏性という問題の追求である。心の絶対自由の概念、それは空を超えて「不空」というさらなる生の肯定の思想になった。

禅が追及する個人に存在する仏性というものが禅を難しいものにしている。禅の思想は人間の理屈による理解を基本的に否定する。何かを基準にして相対的に物事をとらえて理解する事を否定するのである。正しい心を持つならば盗みをしてはならない、というような相対的な道徳のような考えさえも否定するのである。そのようなものを超えた絶対的なものの追及、それこそが禅だという。

この時点で我々は禅というものが分からなくなる。それは我々が日頃から行っている、考えて物事を判断する事を否定するからである。何事にもとらわれず、完全に自由な、人間のなかに本来存在するDNA的につながっている不生不滅なもの、それこそが個人の持つ仏性というのである。理屈ではない根源的に存在するものの発見、それこそが禅の求めるものである。根源的なものとは何か、それこそ「無」という何事にもとらわれないものからくる自由な心によるとらわれからの脱却である。そこから禅は「無」という誤解が来ている。理屈というものを超えた絶対という存在の発見、それこそが禅の求めるものである。それは宗教本来が持つ神秘性そのものである。心でしか見られないものを見た時に得られるものが禅で言うところの悟りだという。

初期の禅は坐禅の強要もない。ひたすら心の自由を追求して悟りを得ることが目的である。生を肯定した心の自由から来る、人間が本来持っている仏の心の存在の発見。その時あなたは禅でいう所の悟りを得るのである。自分でも禅というものを完全に理解できていると思えないので、これが自分の理解の範囲でできる禅の紹介である。その基本にあるのは人間の心に過去から連綿とつながる仏性の存在、その肯定と発見である。
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なぜ日本は太平洋戦争に突入したのか

太平洋戦争という呼び名は、日本政府の使っていた大東亜戦争と言われていたものが戦後になって連合軍によって強制的に呼称を変えられたものである。ここでの定義は1941年12月7日(日本時間で12月8日)の真珠湾攻撃の日から、降伏文書署名の1945年9月2日までとされるが、英国などのヨーロッパではもっと広く、大東亜戦争の概念でいわれる日中戦争の開始時期である1937年7月7日からとする説が多い。やはりこちらの解釈の方が無理がないように思う。

この戦争の原因は、明らかに19世紀の西欧に見られた国家覇権主義を真似て、それを変える事が出来ないままに国家が暴走した結果である。被害者は国民である。責任は国家を運営していた軍部を含む全ての官僚と政治家にある。勿論、今と制度が違うので政治家と言っても今の意味での政治家ではない。半ば身分制に近い政治家たちである。犠牲者数は戦闘員で170万人、民間人で40万人弱であるが、他国の民間人犠牲者数は、中国ではおよそ1500万人以上、朝鮮では20万人以上と、その他の東南アジアを含めると膨大な人数になる。ここに見られる結果は、いかに為政者たちの責任というものが重大なものであるかという見本のようなものである。今の我が国の政治家や官僚、知識人は、その結果に対して何を学んでいるのであろうか。何となく原爆によって我々は被害者感覚だけが大きくなっている気がしてならない。政治家や官僚たちの外交感覚や防衛政策を見る限り、この国は何も学んでいるようには見えないが、それは国民も同様ではないのだろうか。この国に今ある事は経済的な問題ばかりで、防衛とか外交における思想の欠如は目を覆うばかりのひどさである。戦後続いた自民党という官僚と一体化した政治が、この国を何も考えない三流国家にしてしまったのである。

戦争のみなもとは明治維新の国家体制の構築の背後にあった西欧思想絶対主義と、その科学技術の移入のための全体主義国家の構築にある。西欧の科学技術をもとにした圧倒的な武器や機械の存在から来る脅威のため、わが国の明治維新の国家創建者たちは世界でも類まれな大きな変化に対してその優秀さを示したのである。国民の統一のために天皇を神とする国家神道という精神的なバックグラウンドとしての新しい宗教を作り上げ、高い教育によって西欧の科学技術の移入により短期間に列強の仲間入りを果たすことができた。そこにあったものは国家をあげた西欧思想の絶対化である。従って国力と軍事力が増大する事による他国の侵略という国家覇権主義は、その19世紀的な西欧思想の必然の結果として起きたのであるが、誰もそれが時代遅れの間違ったものである事を認めようとしなかった。

明治維新の成功を的確に分析せず、その方向を変える事が出来なかったのは、現在の日本と同じの官僚機構主導の政治体制に原因がある。一旦、成功したものがあると、それを変える事は非常に難しい事である。ましてや日本の官僚機構というものは自己の責任を認めないため、基本的に誤りを認めようとしない。従って方向転換と言う事が出来ないという致命的な欠陥を持っている。これが軍部を中心とした官僚たちによる太平洋戦争という無謀な戦争への突入の原因である。誰もが石油の備蓄がたったの2年しかない事を知りながら突き進んだ太平洋戦争。過去の戦争には勝ってきたという思い上がりによった愚行、我々はそれをもっと深く考えなければならない。そしてその経験を活かさなければ死んでいった多数の犠牲者に何も報いる事が出来ないだろう。現在ある安易な核武装論議や、靖国神社の絶対化などを未だに目論む何も考えない政治家たちは論外である。正しい歴史認識だけが、世界で我々が尊敬される国民になれる唯一の道である。そして今も変わらない官僚主導の何も変化のできない国家体制。これを変えなければ、この国は又しても同じ間違いを犯すだろう。間違いがあったならそれを認め変化できる国、そして戦後せっかく手に入れた民主主義、その本当の意味での民主国家に変わる事、それこそが今、我々に求められているのである。戦後成し遂げた一回だけの大きな経済的な成功、たったそれだけの事で戦前と同じ間違いを続けようとしているわが国。それを誰も正確に述べず、毎日起きる政治的な些事に意図的に振り回されている国民たち。この国は救い難い状況になっている。

税金とは何なのだ

我々の支払っている税金や公共料金とは誰のためのものなのであろうか。この国の国民は誰もそれを深く追及しない。払っているからには何かの見返りがなければ意味はないのに、それが誰によって何に使われているか、あまりにも無関心すぎる。税金が高くとも、それが北欧諸国のように支払った国民に還元がちゃんとなされていれば誰も文句は言わない。それがない事に国民は怒りを持っているのである。

今、社会保障費が増大して増税しろという意見があるが、一体この国の税金がどれだけあって、何にいくら使われているのか正確な情報公開はされているのか。分かりやすい一覧表で示された事は一度もないではないか。一般会計だけではなく特別会計、公共料金として取られている各省庁などによるパスポートの発行や、書類の閲覧などで取られている印紙代など、全体で幾らになっているのか、国民には何も分からない状況にある。独法などの特殊法人でも勝手に事業を作り収入を得ているが、その詳細は公開されているのか。国庫に返還はなされていないものが殆どのはずだ。税金で補助金を得て取得した特許料などは何も国家に帰ってきていない。さらにこれらの法人は個々に海外の支店などの無駄な組織まで作り放題であるし、驚くことに株式会社という関係会社を無数に作って官僚が多数天下りしている。補助金行政というものは、間に官僚機構が介在して、税金をかすめ取るために作られた国民に見えない形にされた構造に過ぎない。子ども手当など国民への直接の還元が「ばら撒き」として潰されようとするのにはこのような訳があるのだ。社会保障費が増大するから増税とは詭弁である。そもそも年金などは長年にわたり掛け金が支払われている。それを返してもらうのは国民の権利である。それが今さら足りないから増税とか、支給開始を遅らせるなど国家の詐欺そのものである。不要な事業や公務員の人件費を削るのが先だろう、あまりにも国民を馬鹿にしている。

これだけコンピューターの性能が良くなっているのだから、税金や公共料金などの収入と使われ方をデータベース化して、その出入りの全てを透明化する事は難しい事でもないし、絶対に必要な事である。科学技術のためとか言って意味のないスパコンなどを開発する前に、情報公開をするための電子化こそが必要なのだ。そんな費用はスパコンなど、国民に何も還元のない使えないものよりはるかに簡単にできるはずだ。勝手に税金を私物化している官僚たちは、事業仕訳けの時のようにマスコミなどを使って懸命に抵抗するだろう。それを無視して実行するには国会議員による立法化しかない事を考えなければならない。議員による立法行為、それこそ官僚たちが最も恐れる事態なのだ。主権在民のために絶対に必要な手段、それは行政府による立法行為の禁止である。税金は国民のためだけに使える様に行政の形を変えなければならない。このままではこの国は、国民だけが確実に破綻する。なぜ公務員達は不正をしたり業務で失敗をしても責任が問われないのか、こんなバカげた国が民主国家のどこにあるのだろう。我々の支払う税金で給与を得ているものが、我々に対して勝手に法律を作り自分たちのために税金を使い放題にしている。これの状態のどこが主権在民なのだろう。なぜ知識人たちは何も言わないのか。

公務員の身分保障は直ちに廃止すべきである。そして不正や失敗をしたら首や降格が自由にではる制度に戻さなければならない。これまでのように国民の代表者である議員による大臣だけが責任をとらされるという異常な形は変えなければならない。我々の代表者が法律を作り、その法律に従って行政が行われるという三権分立の国にすることこそが求められているのだ。税金は国民のものである。特定の業界や公務員などのものでは断じてあってはならない。原発事故によって明らかにされたように、この国の情報は官僚たちに握られたまま公開が適切になされていないどころか、何をしても責任が問われないために、隠ぺい、虚偽、改変が至る所でなされている。税金で取得したものの独占がここでも行われている。我々は本気で税金とは何なのかを真剣に考えるべき時に来ているのである。

この国の護送船団方式は何も変わっていない

過去に存在していたと言われる、この国の問題として指摘されていた護送船団方式、それは官僚、業界、マスコミ、自民党に代表される族議員というものたちによる、独占形態の保護行政による日本独特の癒着構造である。これにより競争という民主主義の原理は働かず、産業構造も時代にあったものに変化しない事で、日本経済はどんどん落ち込んでいった。

バブルがはじけて20年にもなるのに、この国は何も変わっていなかった事を原発事故が露呈した。電力業界、それをとりまく官僚機構と天下りの数々、マスコミと一体化した安全神話、そして自民党への多額の献金の事実。これが護送船団方式以外の何というのであろうか。しかも事故を起こした当事者である東電については、税金で救済までなされようとしている。被爆した食品の生産に関わる農業、畜産、漁業関係者、実際に被爆した地域の住民についての補償は具体的にどうするのかさえ決められずに場当たり的なもので済まされている。これだけの大問題にも拘らず、原発の問題をそのままにして続けようとしているのは何なのであろうか。過去の一度の経済的な成功で「Japan as No.1」などと言われた亡霊を引きずったまま何も変えられない国になってしまったのだ。官僚主導国家では既存のものの変更は何もできない典型である。

電力業界だけではない、あらゆる業界で同じ問題があるのに誰も現実を直視しない。政府の主導する大企業が良くならなければ国民の暮らしが良くならない、という神話を未だに引きずっているのだ。確かに大企業の黒字や内部留保は巨額になった。しかし国民は豊になったのであろうか。結果は全く逆になり、戦後以来、貧困層の割合が最も高くなっただけではないか。産業政策を含めた国家の方針が完全に行き詰っているのである。

変えるために国民が選んだ政権交代、その主要な政策の数々は「ばら撒き」という造語と、変化を主導する政治家たちには「政治とカネ」という作られたキャンペーンによって次々と潰されている。結局は菅直人政権という官僚依存政権が誕生して政権交代本来の意図が潰されていっている。肝炎の補償のための増税などと言っている今の内閣は完全に官僚の操り人形になっている。何で厚労省の失敗の後始末を国民が負担しなければならないのか、とんでもない事だ。全ての公務員の人件費を削減して払わすのが筋ではないか。この国はもはや救い難い状態にあるのだ。我々は何が問題なのかを自分で判断しないと、この何も変えられない官僚国家と共に沈没していくだけだろう。

西欧の略奪とは何か

以前私は「西欧思想至上主義からの脱却は可能なのか」という主題で意見を書いた。それは我が国の明治維新以降の考えをまとめたものと、現在の発展途上国などの西欧化による経済的な発展を述べたものである。これは1960年代では西欧ですでに言われていた「西欧の略奪」という言葉にある考えを述べたに過ぎない。

19世紀の西欧は、その圧倒的な科学技術により武器や機械によって植民地を作り経済的な発展を成し遂げた。世界は西欧が支配したのである。日本の明治維新とは正にこれをまねて徹底的な西欧化により成功したものである。その代償として過去からの優れた思想まで全て放棄したため現在の日本には精神的なバックグラウンドが喪失したままになっている。科学技術による人間中心の経済的な発展、それこそが西欧思想の進歩史観である。世界は人間のために存在し、自然や動植物は全て人間のために利用するべき単なる物質という概念である。歴史は人類が限りなく発展するという直線的な進歩史観で支えられている。

20世紀になって国家的な覇権主義が不可能になり、西欧の発展は行き詰まりを見せた。過去の思想に基づく進歩史観には明らかに限界を見たのである。逆に、非西欧国は日本の明治維新に見られる西欧化によって発展を加速させようとしている。すでに中国はGDPで日本を抜いて世界第二位に躍り出ている。インド、ブラジル、東南アジア諸国、南米各国はこぞって経済的な躍進が続いている。科学技術による発展は西欧の独占が無くなった結果、世界に拡散したのである。西欧の略奪という言葉が本当になったのである。

この先、世界はどのようになってゆくのであろうか。わが国の歴史がその答えを持っている。いち早く非西欧の国として西欧化に成功した我が国は、その成功による光と影の全てを知っている。なぜ知識人と言われる人々はそれを正確に分析し、これから世界で起きるであろうことに役立てようとしないのであろう。この国の知識人は依然として西欧至上主義のまま何も考えていないのだ。依然として大多数のものは西欧の思想の単なる紹介者にすぎない。自分の考えがあっても、以前からある学会や師と仰ぐ者の考えから脱却できない変化のできない国に成り果てている。せっかくの自分たちの経験を活かそうともしていない。このままではどんどん三流以下の国に成り果てていくだけである。自分で考え、自分で判断し行動する国にならない限りこの国に未来はない。
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