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神とは何か、一神教の思想が世界を滅ぼす

19世紀以来、世界をリードしてきた西欧思想の根底にあるものはギリシャ以来の闘争の思想とキリスト教という一神教である。また西欧の科学技術のみなもとにはもう一方の一神教であるイスラム教の世界があった。西欧の科学技術は、一神教同士の戦いという十字軍により、イスラムの知識が西欧に移入された事が大きい。どちらの世界にも、世界四大文明といわれるエジプト、メソポタミア、インダス、黄河の文明の全てに見られる農耕、牧畜による森の消滅という同じ現象がある。特にエジプトなどの地中海沿岸地域とメソポタミアの区域はひどい状態になった。西欧の神と、仏教における神は何が違うのか、それを考察したい。

仏教では2元的な見方を否定する。自分というものから他人というものを見る事は幻想に過ぎないとする。善と悪という見方はしない。悪は自分とは対立するものと考える事を拒否し、己の中にあるものとして煩悩というものに規定する。西欧の正義の概念と真っ向から対立する考えである。仏教の分かりにくさは、西欧の宗教にある聖書などの一つの教義にまとまっていない事にある。そこにあるのは良い意味での多様性、悪い意味でのいい加減さと言われる。しかし本当にそうなのであろうか。その根底にある思想を見れは、決してそのような事は言えない事に気が付くだろう。

キリスト教もイスラム教も神というものを特定する。それは自分より上の存在としてのキリストであり、アッラーという存在である。自己と対立する存在として神を考えるのである。ここに仏教との根本的な違いがある。仏教、特に大乗仏教での神は個人の中に存在する。個人の中にある仏性を認めよ、それを働かせるために修行せよ、それが仏という神なのである。その神の本質とは何か、それは宇宙の中にある全ての生命である。人間はそれ自体では存在していない。父母や祖先から連綿と続く生命の連鎖と、それらを取り巻く動物や植物、空気や水や山や川という自然の生命、それらの中で関連して生きている一つであるものにすきない。だからこそすべての生命に神を見るのである。自分の生命は、無数にある全体的な生命の中の一つにすぎないという概念である。ここには闘争という概念は生まれない。全ては多の中の一であり、一は多なのである。生命を神と見る宗教に闘争という考えは生まれない。他を征服して己だけが存在しうると言う事はありえなくなるからである。それでは進歩はないという反論が聞こえる。しかし進化論とは征服という結果なのであろうか。それは余りにも短絡的な見方ではないのか。進化とは環境によりよく適応した結果に過ぎないもので自分以外のものを滅ぼした結果ではない。環境に適応できなかったものが消滅したに過ぎないのではないのか。

キリスト教やその根源であるユダヤ教やイスラム教という一神教の傲慢性をもっと考えるべきである。全ての生命は単独で生きていくことは絶対にできない。その意味では一神教の理念に未来はない。なぜ人類は同じ間違いを繰り返すのか。仏教などに見る多神教という生命の多様性を見直すべき時が来ているのである。西欧の思想だけが正しいという排他的な考えこそが問題だと声をあげる時が来ているのだ。一神教で世界は救われない。

唯識から見える仏教の思想

唯識では心の構造を8つに分け8識と呼ぶ。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、という5感に相当するものと、それを統括する意識、無意識に相当する末那識、および宇宙の生命的な感覚である阿頼耶識である。始めの6つを意識の範疇、次を無意識、最後が心の一番深い層にある生命情報的なものとしての3つの範疇に分類されている。これらの分析から仏教の色々な思想の根源が見えるのは興味深い。

阿頼耶識はDNA的な生命情報のようなもので、蛇などの爬虫類が生まれつき嫌いとか、始めてみる景色の中に何か懐かしさを感ずる説明のつかない意識である。それは五感や無意識を超えた感覚である。これに対して五感というものは「別々の対象に対応するもの」とされている。すなわち対象を全体から見るのではなく個別に見る事である。我々はそれが当たり前のように思っているが、唯識ではそれを妄想、または仮想のものであるとする。自分だけの側から見た世界は存在しえない、全ては関連して存在するものだから意識による認識は心の在り方で変わるものとしている。阿頼耶識で見る対象は、個人は大宇宙の生命の一部、大宇宙そのものという華厳経で言う一即多、多即一の世界、天台智での一念三千の世界であろう。個人の中に宇宙の生命という膨大なものがあり、宇宙の生命の中の個人という考えである。

ここから意識というものを見る仏教は、善に対抗するものを悪と規定しない。善と悪を区別すれば、それ自体が対立する世界を形成する事になる。そのために善と煩悩という分け方をする。煩悩とは己の中の問題であり、他人などの別のものが悪いという考えにしない。全ては一なる世界の問題に帰結する事になる。逆に言えば「悟り」というものも実体としてとらえない。煩悩の中に悟りがあり、悟りは煩悩に中にあるものとしてとらえるのである。悟りが煩悩から区別されて存在するのであれば、生まれつき煩悩がない、悟りを持った人が生ずるという矛盾が生じる。それは仏教の本質を破壊するものになる。唯識における心とは個人から見た確定的なものは存在しない、全ては変化するものの中にある。一瞬の中に何かを見ても次の瞬間に全ては変わる。けれどそれを認めよう、その中にあるがままの中に生きていくことこそが大事である、とするのが大乗仏教の根本的な空の考えであると思われる。

最後に無意識としての末那識を考察すると、それは西欧で考えられた深層心理に相当するものである。人間のさまざまな問題の根源をこの末那識の問題と唯識は捉える。自己は本来宇宙の生命の一部に過ぎないのに、逆に自分が存在するから意識があると間違える。そこから自我という末那識が生まれて妄想が始まるのである。生きがいとか自尊心などは末那識が生む妄想に過ぎないとする考えは理解が難しい。西欧の自己という理性主義や人間主義の観点とは真逆の考えである。そして唯識では、それこそが何かに対する執着のみなもとであると分析する。実体的な自我への執着、それを捨てよ、その深層意識が全ての無明の根源であると唯識は分析するのである。それを捨てて宇宙の生命の中の一部と思う事が大事だという考えは、天台本覚がいうところの「山川草木悉皆成仏」という日本の自然との融合を見る思想になっていったのであろう。これらの全ての心の分析が2000年以上も前から存在する事に驚かされる。そして、これらの思想がいかに優れているのか、我々は本当に仏教の思想を理解する必要をここにも見出すのである。

大乗仏教の思想の根源とは何か

インドで発生し中国、百済を経て日本に伝えられた仏教は、その時点で大乗仏教という釈迦の教えによる自分の悟りだけを追求する小乗仏教とは大きく異なったものであった。その根源にある思想は龍樹による空の思想である。では、その空の思想はどのようにして作られてきたのであろうか。

空海による密教の曼荼羅に示された金剛界の部分について5つの知恵を現わすものの解説をした。それらのもとになっているものは唯識という心の分析から来る知恵である。何度も書いたように、西欧における無意識の発見は19世紀のフロイトに始まる新しいものであるが、仏教の唯識という心の分析では無意識という末那識(まなしき)や、無意識を超える根源的な意識としての阿頼耶識(あらやしき}というものの概念は2000年くらい前にすでに存在している。唯識では心の構造を8つに分け8識と呼ぶ。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、という5感に相当するものと、それを統括する意識、無意識に相当する末那識、および宇宙の生命的な感覚である阿頼耶識である。始めの6つを意識の範疇、次を無意識、最後が心の一番深い層にある生命情報的なものとしての3つの範疇に分類されている。

この唯識では、人間や物の存在という認識を仮想のものと考える。自分がいて、他人がいて、物がある、と認識する事が仮想の事とは俄かには信じられないだろう。それらは触れれば感じられるし目でも確認ができるではないか。なぜこの認識自体を仮想のものと言い切るのであろうか。唯識とは言葉通りで、ただ(唯)、心(識)しだいで世界がどのように見えるかが決まる、という事を意味している。すなわち自分を中心に物を見ると、その利害関係だけに従って、関係するものとしないものとに分けたりする事態が生ずる。しかしながら阿頼耶識というものによるDNA的に引き継がれた生命の本質的なものの意識とは、全てのものは不可分につながったものという意識なのである。自分の存在は父母や祖先なくして存在しえない。それらの全ては動植物から自然までの全てが関わって、ものを食べたり利用したりしながら存在している。従って自分という存在を大宇宙の命の一部という認識で見ないという事は、真実の世界ではない虚構の世界にいることと同じことを意味する。さらにいえば、生命は無数に存在し、各々の生命はそれぞれが複雑に絡み合っている。従って、それ自体で独立して存在する自己というものを否定する。そういう意味で自己の認識を仮想のものと結論付けているのである。これは、AであるからBであると考える二元的な考えの否定という禅の思想の もとになっているものである。

我々は自分だけを考えて、世界は自分の周りを動くものと誤解している。しかし、本当は世界の一部として自分があるに過ぎない。自分の存在は、大宇宙の無数に存在する生命の関連の中の、ほんの一部であるとい事実を意識しなければならない。世界は常に動き、複雑に絡まりあい一時も同じ状態でいる事はない。それが無常という現実である。自分の存在は宇宙の一部としてあるという有、または全体として見れば存在しないという無、有でもあり無でもあるし有でもない無でもない。したがって人間を有でもない無でもないとする空の思想が生まれたのであろう。小乗仏教の欲望の否定だけに偏るな、かといって欲望の肯定に偏ってもいけない。生命の本質を正しく理解して、自分というものを大宇宙の生命の一部として認めて生きよ。それが空という大乗仏教の思想の本質なのであろう。

リビアの民主化から見る将来の世界的な危機

チュニジアから始まりエジプトを経て、リビアに広がる中東のイスラム各国の民主化はもはや止まることはないだろう。イスラム教にはシーア派の方が圧倒的に多いがスンニ派という2つの大きな宗派がある。基本的にはユダヤ教もイスラム教も同じ神から派生したものである。その意味ではユダヤ教という旧約聖書から派生した、新約聖書をもとにしたキリスト教も同じものである。これらの世界3大宗教に共通するものは唯一絶対神を崇拝する一神教である。ユダヤ教ではヤハウェイ、キリスト教ではキリスト、イスラム教ではアッラーという神が絶対神である。パレスチナではすでにヤハウェイとアッラーがぶつかり合っている。この先、殆どのイスラム国家が民主化という形で西欧の科学技術をもとにした国に代わるのは必然になってくるであろう。そして石油資源ではなく、中国などと同じ形で経済的に豊かになっていくにつれて何が起きるのであろうか。その時こそ全く新しい宗教的な対立の激化であろう。

イスラム教もキリスト教と同じ闘争の原理で動いている。片手にコーラン、片手に剣という言葉こそがイスラム教の本来の思想なのである。キリスト教が最後の審判で信者以外をゲヘナの火で焼き殺すように、イスラム教もまた信者以外は殺される運命にある。イスラム教ほど平等な宗教はなく、富めるものも貧しいものもモスクの中では平等で先着順に礼拝をするという。しかし、これはあくまでも信者に限られた事に過ぎない。信者以外は徹底的に差別されるのである。イスラム原理主義というものほどイスラムの本質を現わしているものはない。それはタリバンというアフガニスタンのイスラム教徒がバーミヤンの仏像である石窟を破壊した理屈そのものである。自分たち以外の神は認めないという宗教、このユダヤ教、キリスト教、イスラム教の世界を見ていると世界から戦争は決してなくならないと思わざるを得なくなる。

現在の米欧主体の国連やその他の世界機関は、今後、非西欧諸国の経済的な発展による存在感の増大で大きく変わるだろう。その時、誰がこれらの3大宗教国家をまとめ上げられるのであろうか。今のままにしておけば、世界は間違いなく一神教というぶつかり合いの戦争の世界に突入するのは不可避であろう。この問題は中国やインド、東南アジアという非西欧諸国による経済的な台頭とは基本的に大きく異なった背景を持っている事を理解しなければならない。ここに大乗仏教という多様性を認めながら利他の思想を持つ仏教の出番があるのである。西欧の一神教という排他的な思想を変えるもの、それは仏教の思想以外に求められない。人類の未来に仏教の重要性はますます大きくなることを自覚できる日本人はどれだけいるのであろうか。そのためにも我々日本人はもっと仏教の思想を知らなければならない。西欧こそが世界をリードするという考えから我々は脱却すべきである。西欧思想で戦争は決してなくならない。歴史がそれを教えているのに誰も学ぼうとしていない。仏教を時代遅れのものと決めつけて何も知ろうとしない日本人にはウンザリする。過去の日本人ほど優れた国民がいたであろうか。我々は自分たちにもっと誇りを持つべきではないのか、それを問いたい。

日本人としての誇りとは何なのか

靖国神社の問題を見ていて恥ずかしいのは、終戦記念日に軍服を着て日章旗を掲げながら参拝にくる若者たちである。自分たちの親や無数のアジアの民間人が犠牲になった事実を無視し、わが国のために死んでいったものを英霊として尊敬しろという傲慢性はどこから来ているのであろうか。戦争というものは何であったかを考えず、自分たちの都合だけで世界を考えるという傲慢性にあきれるのは自分だけなのか。そこに見られるのは戦後の教育に確実に欠けている道徳観という根本的な問題である。それは大量破壊兵器がなかったのにイラクを攻撃して戦争に走った米国と同じである。

明治維新で何が行われたかは何度も述べた。それでも殆どの人々は理解さえしようとしていない。その根本にあった考えは国家が征服されないための大変革の実施であった。その正しさは歴史が証明している。しかし、それを実行した武士という強い倫理観を持った集団がいなくなった途端にこの国は劣化を始めた事実を誰も正しく見ようとしていない。天皇を神として実態は官僚による独裁による中央集権で西欧化を果たしたことは正しかったけれど、それを引きずって何も変えられずに太平洋戦争で自滅したことを誰も正しく分析していない。むしろ原爆によって被害者のような教育がなされている事に異常性を見ないでどうしろというのだろう。この国の知識人たちの無責任さにはあきれるというより、情けない思いで彼ら、彼女たちを国賊と決めつけたい思いでいっぱいになる。国のために死んでいった多数の若者や招集されていった一般市民に謝ろうともしないのだろうか。無謀な戦争を主導した者たちは東京裁判という茶番で裁かれたけれど、その何百倍もの招集軍人は現地で戦犯として処刑された事実を国もマスコミも何も国民に知らせようとしていない。そこに見られるものは、原爆投下の被害の詳細の全てを、国民ではなく米国に提供して訴追を免れた多数の官僚たちの裏切りの事実でもある。国民が平気で見捨てられたことは今回の福島原発の事故の対応と全く同じである。

明治維新以前にあった士農工商という身分制度の中では、藩主のために命をささげるというのは武士階級だけに求められたもので、その他の農民などにはそのような考えは何も求められていなかったし、事実、武士階級以外は戦いには誰も参加していない。例外といえる奇兵隊という特殊な組織は、元は武士だったものが農民にならざるを得なくなっていたものが武士として復活し参加した組織に過ぎない。明治維新を作り上げた武士階級は忠君愛国の思想を全国民に強要して富国強兵に利用しただけなのである。太平洋戦争に突入したのは、過去の思想を変える事ができずに、西欧の国家覇権主義をなぞっただけの官僚による失敗に過ぎない。前例主義でしか物事を考えられない無能集団の官僚制度が国を滅ぼしたのである。

戦後はどうなのか、全く同じことを官僚たちが繰り返している。国民が必死になって成功させた経済的な成功を自分たちの成果のような傲慢な考えで何も変えず、自民党という政党を利用した民主主義の皮を被って国民を欺いたまま中央集権の独裁で今日まで来た。政権交代してあせったものの、結局は菅直人政権の構成員たちの浅はかさを知って、それを徹底的に利用するように方針転換し見事に成功している。菅直人がダメになれば次は理念を持たないものであれば誰でもいいのである。案の定、見栄えだけはいい前原というバカを選び出してマスコミを使って世論操作が開始されている。これがこの国の実態なのだ。

明治維新以降、少なくとも国民は忠君愛国という道徳によって誇りを持つ事ができた。今、この国の国民は何を基準に生きているのであろうか。戦後、連綿と続けられているのは経済的な成功という物質的な満足感だけである。そこにあるのは米国に見られる個人至上主義という精神的な裏付けのない薄っぺらい生き方だけの世界である。戦前から残っていた他人への思いやりという仏教などの過去から連綿として続いていた道徳は消え去ろうとしている。その最大の原因は官僚機構による国民の他人を思いやる道徳の悪用だろう。自分たちの私的な既得権だけを目に見えない形で温存し、全ての責任を国民が選んだ政治家に転嫁して誤魔化している。このままではこの国は本当に崩壊するだろう。我々は何を基準に国を作るのか、一人一人が自問すらしていない。もっと考えよう、本当に情けない国民になってしまっている。
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