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補助金政策こそが官僚たちの利権のもとだ

政権交代して大騒ぎになったのは「ばら撒き」という言葉であった。子ども手当や高校の無償化、高速道路の無料化、農業に対する戸別所得補償、などの全てにマスコミは税金のばら撒きと一斉に非難を開始した。財政悪化がひどくなるという名目であったが、その本質が自民党の官僚による無駄な公共事業などの補助金政策で900兆円にもなっていた事実は何も報道されなかった。民主党の政策は補助金政策ではない直接支援ともいうべき、間に官僚たちの天下り先や特殊法人、利益団体を介在させないものであった。従って、これらの政策が増えるほど官僚たちの利権が無くなるので、その危機感からマスコミを使ってばら撒きという造語で世論操作を開始したのである。国民は何も考えずにまんまとその作戦に乗っかって、とにかく非難さえしてれば溜飲が下がるかのように世論操作のままに操られている。

この事は寄付に対する税制を見ても明らかである。田中良紹氏が何度も非難しているように、この国では寄付しても税金の控除がない。あっても条件が付くなどの制限があり出来るだけ機能しないような工夫がなされている。理由は単純なものであり、寄付が無税になれば民間からの資金で公共施設が作られたり、効率的な運営がされることによって補助金政策は根本的な意義を問われるからである。自分たちの既得権を擁護するためには税金の効率的な利用は官僚たちには最大の敵なのである。何か問題が出るとリーマンショックなどの対策のために何とか基金とかを作り上げて天下り先が作られ、原発事故では東電支援のための特別な組織までが作られる始末である。現在の国の政策は、ほぼ100%が補助金政策である。下らない食育教育から科学技術の振興などのものまでを含めて、あらゆることに対して官僚たちの恣意的な運用で巨額の税金がばら撒かれる補助金システムが国を歪めている。

いまマスコミが懸命に世論操作を開始しているTPPの参加問題を見てみるとその裏がよく分かる。たったの9ヶ国しか参加していない規模の小さな自由貿易協定という欺瞞にあふれる協定に参加しないと、日本は世界から取り残されるというバカげた論調に満ち溢れている。本当の目的は、マスコミが意図的に流している農林漁業が壊滅的な打撃を受けるという反対派の主張の一部の問題にある。これを逆手に取れば、TPPの参加の見返りとして各省庁は農林水産事業のための補助金政策を大量に作り上げる事ができる。こうしてわが国はどんどん官僚社会主義国家になっていくのである。この国を本当の民主主義にして財政赤字を無くすには、全ての補助金政策を全廃するくらいの大改革が必要である。増税などに何の意味もない。無駄な税金の使われ方が保たれたままで増税して何の意味があるのか。特別会計を含めた予算の改革と共に、その使われ方も大きく変えない限りこの国に未来はない。裏切り者の野田ブタ官僚依存内閣によって、増税に加えて年金支給年齢の引き上げなど国民負担だけが増やされようとしている今、国民は何を求めるべきが良く考えないととんでもない結果になることを良く考えるべきだ。

宗教的痴呆状態が精神の荒廃をもたらしている

現代の米国や西欧の中にはキリスト教というものが形としては精神的なバックグラウンドとして厳然と存在している。しかし、米欧も含めて、世界は経済的な発展が進むほど、宗教的な基盤は人間中心の思想によって、神という存在は日増しにわきに追いやられて物質的な人間の世界というものに成り果てようとしている。この事は明治維新の廃仏毀釈という制度によって、現代のわが国社会にはもっと顕著になっているように見える。

戦前は、明治維新によって新しく作られた国家神道というもののもとでの、天皇を神とする考えのもとで国民の統一が図られた結果、道徳の基準は全てが国家神道によりなされていた。しかしながら国民の間には、忠君愛国という考えだけではなく、江戸期から続いた儒教的な思想や仏教による思想も色濃く残り、家庭でのしつけや社会的な規範にも過去の優れた思想は残されていたのである。戦後は戦前の道徳的な規範そのものがすべて否定され、民主主義における自由や個人の権利だけが拡大解釈されて、道徳的な規範を何に求めるかという大事なことは忘れられてしまった。敗戦によって全ての価値観が逆転し、国民は精神的な痴呆状態と、天皇のために死ぬという重しからの解放感という両方を味わったのである。経済的な発展による個人の利益の追求ばかりが求められ、大多数の親は子供を良い学校に行かせ、良い会社に就職させることだけが良い人生を送れるものだと信じて疑いもしなかった。

すでに明治維新の廃仏毀釈によって仏教は壊滅的な打撃を受け、さらにねつ造された国家神道によって、わが国の古来からあった本来の神道も間違って解釈がなされた事で、日本国民は道徳の規範となる精神的な裏付けとなる宗教的な基盤を失っていた上に、戦後の思想の大転換により、現在の大多数の人は精神的なバックグラウンドを何に求めるべきかという問題を棚上げにしたまま今日に至っている。過去の優れた仏教や、武士階級の中に存在した儒教による精神的な修養による高い道徳観は無くなり、国民の中に存在していた世界でもまれにみる高い品格は完全に無くなろうとしている。道徳という言葉さえ時代遅れのような考えが国中にあふれ、国民は経済的な成功以外に何を求めて生きるのか、誰もが精神的な放浪状態にいるように見える。個人的な利益の追求という考えがはびこり、公私のけじめは完全に消え失せた結果、おおやけの仕事をするべき公務員と政治家の劣化は特にひどく、これらの集団は国民のためという目的を逸脱した、私利私欲だけの追及を図るだけの寄生虫に成り果てている。学校の成績の良いものだけが行う官僚機構という歪んだ形態が政治家と一体になって国をますます間違った方向に導いて、国民生活はどんどん悪い方向に進んでいる。

道徳の規範を決めるものは、その国に過去から続く精神的なものを除いては絶対に存在しない。人間だけが正しいものとして神の存在を忘れた時、そこにあるものは物質的な人間しか残らない。それは現代の精神を忘れた巨大な物質文明が証明している。国民の品格を取り戻すためには、何度も繰り返して意見を述べているように、過去の優れた仏教や原始神道に見る全てのものに生命という神を見る思想の見直しは絶対に必要である。神を否定したことが人間中心という間違った社会を作り出してきたのである。西欧至上主義ではない日本という国民の思想を取り戻す必要がある。

米欧で吹き荒れる貧富の差という問題

米国のウォール街に端を発した貧富の差の拡大に対する抗議の声はヨーロッパに飛び火した。この問題の根源は西欧の略奪という主題によってすでに意見を述べた。米欧の発展のための科学技術による覇権主義は米欧以外にすでに通用しなくなった事に原因があるのだ。アジアをはじめとした発展途上国と言われていた各国は、すでに過去の西欧のような科学技術を取り入れた産業の誘致や発展を進め、その結果、米欧の産業自体が競争力を失い国力が徐々に弱まってきているのであろう。その事は、米国が金融を商品として市場の拡大を図ろうとして失敗したことに顕著に表れている。市場が生産を主体としたものではなく、投資と知的財産いうものが主体になっている事から貧富の差が拡大したのは当然の結果であろう。さらに国力の低下に対する公的機関の肥大化が財政悪化に拍車をかけている。米国は軍事費がアキレス腱になりつつあり、欧州各国は公務員の肥大化が最大の問題になっている。

わが国はどうであろうか。すでにバブル崩壊から20年以上たったが、経済的な低迷というより国内の産業の空洞化という問題の方が大きくなっている。金融政策の失敗は続いたままで、日銀は何も機能せずにデフレ経済は依然として解決されない。地方分権は何も進まず、官僚主体の中央集権は拡大が続き、公的事業だけが拡大した異常な経済体制になりつつある。すでに独法や特殊法人などの準公務員と呼ばれるものが多数勤務する形態の法人や、それらが設立している天下り先としての株式会社が民間会社をよそおって多数存在し、国民の9人に1人は公務員だと言われている。この結果、国家予算の大半を占める特別会計というカラクリは何も改善がなされず、政権交代したのに民主党は何も手を付けていない。従って公的なコストは異常に高いものになったままで、国民生活や企業活動に対する社会的なインフラコストの異常な高さが、世界的な競争力をさらに低下させるという結果になっている。すでに主要な産業の大半の会社は、それらの生産拠点を諸外国に分散して生き残りを図っている。その認識のない政治家たちは不毛な議論を繰り返し、官僚による恣意的な情報操作のままに操り人形と化して国民のための政策が何も展開できなくなっている。過去のような輸出による産業構造はすでに破たんしているのに、依然として構造問題を無視した表面的な議論だけが繰り返されている。TPP問題などはその最たるものである。たったの9ヶ国しか参加していない制度に参加する事が開かれた国とかいうばかげた言葉で世論操作がなされ、市場開放とは何の関係もない、制度の解放という重要な問題が何も国民に知らされていない。関税自主権の放棄と自由貿易とは完全に違う問題なのに、あたかも参加しなければ世界から取り残されるかのような御用評論家による解説ばかりがマスコミを通して宣伝されている。

この国の未来はすでに公務員国家になっているものを大きく変える事以外にない。そのために地方分権は必須の課題である。公的組織の縮小による以外に財政赤字は克服できない。すでに少子高齢化になっている人口構成は、この先何十年も問題の主題にならざるを得ない。それを分かって放置した過去の自民党と官僚たちの責任は果てしなく大きい。しかもその是正のための子ども手当までもが潰されようとしているこの国はどうなるというのだろう。このままでは国民負担だけが増やされるが、過去のような成長産業もなく、人口構成も大きく異なっている国の形を無視して何が変えられるというのだろう。少ない税収で国を運営するには公的機関と公務員の縮小は絶対条件である。だからこそ地方分権が必須条件なのである。高速道路などの重要なインフラを無料にすることだけでも国は大きく変わる事ができる。地方と都市の自由な往来や、人と物の自由で安価な移動は地方の発展のためには不可欠である。公的なものを官僚の持ち物にしてはならない。国家のためとは国民のためというものでない限り何の意味も持たない。今のこの国は貧富の差という以前の、民間と公務員との問題になっているのである。国の形を社会主義ではない国民主体のものにしない限りこの国に未来はない。

国家の品格という本を考える

新潮新書から2005年11月20日に出版された藤原 正彦の著書である「国家の品格」という本が今頃になって見直されている。そこにあるのは西欧思想の合理性という考えに限界と欺瞞を見るものであり、一読の価値はある。ただ簡潔に解説するために、全てを武士道の精神でわが国の過去の道徳を見直せというのは無理がある。江戸期の武士の道徳観は儒教が主体のものであるが、朱子学を主体にした水戸国学なども大きな影響を持っていたことも事実である。ただ国学の見方の代表である本居宣長の日本文化論は、明治以降わが国の文化に対する偏見を植え付ける原因となり正しい理解の妨げとなった事も事実である。全てを「もののあはれ」で単純化して解釈するようなものは、本来の日本の思想を説明するものでは断じてない。

確かに国家の品格が述べているように、道徳という基本を日本が戦後の教育から無くしたことが原因である事は正しいだろう。しかしそれを武士道だけに基づいたもので教育すべしというのにはあまりにも短絡的な指摘と言わざるを得ない。また民主主義の主権在民はポピュリズムにすぎず機能しないという指摘も短絡しすぎである。そのためにエリートを育成せよという思想は理解できるが危険であり、もっと精緻な論理が必要だろう。それは階級というものを肯定する事になり、何を基準にエリートを作り、そのエリートだけが国を動かす判断をするというのにも無理がある。へたをすれば今の官僚機構を認めるものに利用されかねない。

やはり本当の意味で国家の品格を問うならば、それは我が国の縄文時代からの歴史の正しい認識と、過去の原始神道や仏教、中国の思想である道教や儒教や朱子学がどのように日本人に影響を与えたかという正確な分析が必要である。そのうえで何が過去の日本人に品格を与えたかを考察すべきであり、それに基づいてわが国をどのような国家にするのかという主張が必要だろう。武士道だけがわが国の文化を作ったわけではない。神道だけでもない、仏教だけでもない。それらの全てが複雑に絡み合って江戸期の武士たちやその他の国民の道徳的規範が形作られてきた事を理解すべきである。その上で、明治維新で作られた国家神道の間違いを指摘しなければ、結局は全体主義としての道具して神道が再利用されかねない事になる。すでに靖国問題は官僚とマスコミによる世論操作によって、その本質を外交問題と言う事に意図的に歪曲されて正当化が図られようとしている。国家神道が明治という国家を中央集権にするための精神的な柱にするための道具として作られた事を正確に認識しない限り、靖国問題の解決は絶対に不可能である。

わが国の品格は、西欧思想と根本的に異なる仏教の思想を主体にした自利利他の考えと、原始神道にある全てのものに神を見る生命の思想を柱にすべきである。この長きにわたる神仏混淆の思想が明治維新による廃仏毀釈によって失われて以来、わが国の道徳は低下の一途をたどった事は間違いがない。新渡戸稲造は日本人が無宗教なのに高い道徳心を持っている事を聞かれ、理由が分からなかったが自分が教育されたことを理由にとっさに武士道という言葉で日本人を説明したことが海外で評価されたに過ぎない。わが国の現状は日を追うごとにひどくなっている。官僚という公の精神を完全になくした公務員達は国民を欺き、私利私欲に走り、道徳のかけらもない大多数の国会議員たちは国民からも外国からも国家観なき思想によって完全にバカにされたままである。国家の品格を取り戻すには、西欧思想ではないわが国の過去の優れた思想を取り戻し、その中の何を道徳の規準に持つのかという根本的な議論なしには再生できないだろう。我々は余りにも過去の日本という国家を知らなすぎている。この本はそれを思い起こさせたという意味で優れているというべきである。

般若という仏教的な原点

般若という言葉で大多数の人が思い浮かべるのは、能などで使われる女性の嫉妬した顔を表す角の生えたお面であろう。それは般若坊という有名な能面師からつけられた名前であり、仏教での般若の意味とは何も関係はない。

空の思想を展開する般若心経における「般若」の意味するものは、西欧における人間の理性などから求められる理知という科学的なものと真っ向から対立する思想である。人間が頭で考える科学的な考えによる知恵や知識の知ではなく、般若とは瞑想などの実践的な行の結果得る事ができる「ひらめき」に近い実践の智というべきものを指す。そこにあるのは西欧の合理性などという考えを越えた仏教の哲学的な認識である。

我々は西欧思想による個の確立とか独立という事を教育されている。そこにある思想は、人間があらゆることに優先されるという17世紀以来の西欧の傲慢的な哲学である。デカルトの二元論による思惟する自己とその延長上にある物体という考えは、人間以外の動植物や自然を物としてとらえる事で人間の支配を当然のものとしてとらえ、それに従って科学技術は発展してきた。全ての自然の出来事は数学的にあらわせるとか、秩序が必ず存在するとして人間は科学技術を発展させてきた。もちろん、それによって人類が得た利益は大きい事は事実である。しかしながら時代が進むにつれて、我々は物質文明という巨大な現代文明の中で行き場を失っている。西欧中心の物質中心の思想は、キリスト教などの一神教という多様性を認めない宗教と共に完全な隘路に陥ろうとしている。

仏教においては個という考えこそが苦の始まりであるという全く逆の思想になる。自分を中心に世界を見る事は幻想であると言うと大多数の人は笑い飛ばすに違いない。個人の幸福の追求こそが目的であり、それを否定した人生は考えられないのであろう。ある意味では当然である。しかし、本当に個人の考え中心で、我々は救われるというより幸せは得られるだろうか。言葉で考える世界は誤謬に満ちている。概念というものは個人の考えで多種多様に理解され、他人との誤解のもとになる。自己中心の考えだけでは世界は理解できない。個の確立によって言葉というもの自体が自分勝手に解釈されて、その結果、全体を分断するものになってしまっているのである。

般若による実践の智は全く別の思想である。言葉に基づかない覚醒と言う事で世界を理解するという非合理性こそが正しいとするものである。西欧の科学技術や理知的な解釈ではとらえきれない生命というものを考えるとき、人は心の存在をどのように考えるべきなのであるのか。それ自体が合理的に証明できないのであれば、心というもの自体も迷信と言う事で片づけられるのであろうか。それを心と言うのか、それとも霊魂とでも言うべきかは問わない。しかし世界には明らかに我々が科学的に解明できない数々のものが存在する。DNAの存在が証明されても、DNAがなぜ存在し、突然変異がなぜ起きるかなどは解明されない。生命の基本はどのようなものかという根本的な事について我々は全く無知なのである。

般若と言う実践により感じられる智は、個人中心のものの見方や考えを否定する。個は全体の中で絶えざる変化にいるものの一つにすぎず、全体なくして個はあり得ず、個のない全体もないのである。あらゆるものは一定の場所にとどまることはなく、常に変化しながら無限の関連性の中にあるだけなのである。それを無常と言う。従って、我々が使う言葉と言う定義であらわされるものは仮のものでしかないのである。ここから「空」という全体性の中の関係を感じられた時に人は「涅槃」という境地に達するのである。そのとき我々は初めて苦から解放され、真の安らぎが得られるというのが仏教の基本的な考えである。
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