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地球人口70億突破の行く末

日本は人口が減少し始めたが、世界は増え続けて、ついに70億人を突破したという。これは明らかにBRICsに代表される非米欧諸国の経済的な発展の結果であろう。これは過去の人類の歴史で西欧諸国が科学技術による機械などで自然支配をしたことで発展し、その結果、人口が増加したのと同じ構図である。しかしながら自然破壊はその代償として進んできた。今後、世界は中東やアフリカなどが同じ構図を辿って西欧化による経済的な発展をするようになれば、現在よりひどい地球規模の環境破壊はすさまじいものになるだろう。確かに科学技術による経済発展で貧しい人々が減ったという事実は喜ばしい事である。しかし、我々は同時に過去に起きた負の出来事を学ばずに同じ間違いをするべきではない。

何度も意見を書いてきたように、世界は西欧思想により物質的な発展が進んだが、その結果、地球温暖化などの環境問題の規模は過去と比較にならないほどすさまじい勢いで拡大してきた。このまま同じことを繰り返すほど地球に余裕はあるのだろうか。人類は戦争という問題と共にこの問題をもっと重要視する必要がある。自然破壊をせずに、自然と共存しながら発展する方法を見つけなければならない。その第一歩は過去の西欧思想の見直しである。思惟する自我とその延長上の物質というデカルトの二元論では世界は滅茶苦茶になってゆくだけである。

確かに科学技術によって世界はここまで発展してきたが、人類は何を得たのであろうか。際限のない物質的な欲望は、際限のない競争や闘争になったまま、ますますひどくなる様相を呈している。特に米国型の新自由主義と呼ばれるネオリベラリズムの意味するものは「新」ではなく、元の自由競争に帰れという弱肉強食の理論であり、それが極端になったリバタリアニズムという「自由原理主義」が果てしのない欲望の世界を作り出してしまった。貧富の差が拡大した結果、若者だけではない貧しい者たちによるウォール街の占拠という大規模な抗議行動になって世界に広まりつつある。それが極端な自由を制限した New Liberalism とか Social Liberalism と呼ばれる社会自由主義に戻るとしても、基本的には物質的な発展が最も大事という西欧思想の根本は変わっていない。

世界の人口が増えれば、経済的な意味での市場構造も産業構造も大きく変わるだろう。しかしながら自然を搾取して発展するという構図は変わらないのであれば、一次産品である原材料や食料品は高騰するばかりになり、需要と供給のバランスが崩れて大混乱の時代が到来する事が考えられる。もはや過去の経済的な図式が通用しない時代がすぐそこまで迫っているのだ。わが国のような官僚国家は変化というものに何も対応できないから、このような流れに対して大きく遅れる事が今から予想できる。「ものづくり日本」などという概念も通じなくなる恐れは十二分に考えられるだろう。我々は明治以来続いてきた西欧化こそが正しいとする考えを改めなければならない。

非西欧諸国で初めて西欧化に成功した長い歴史を持ったわが国は、どのような思想が今後、世界を正しい方向に導けるかということを唯一知っている国になれるだろう。その前提になる思想は過去から持っていた原始神道や仏教の思想にある。自然と共生する多神教的な思想や、他人を思いやる心のある自利利他の思想などの優れた思想である。西欧型の経済だけで物事を考えたり、キリスト教やイスラム教という一神教の考えだけでは世界は対立し、戦争はなくならず滅亡への道をたどることは明らかだろう。それを阻止できるのは我々日本人の過去にあった優れた思想の見直しだけである。野田ブタ内閣は何の自覚もなくベトナムやインドに対して、我々が失敗した原発の輸出に進むという大きな間違いを始めている。この事一つを見ても、いかにこの国の政治家たちに理念がないのかという事がよく分かる。歴史観も哲学も理念もない国民は、どこの国からも信頼もされないし尊敬もされない。それを変えられるのは我々の自覚と、過去の思想の正しい発掘による理念の再構築だけである。
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未だに明治時代の天皇史観から離れられない日本人

日本人の大多数、特に年配の人々の中には、未だに神社を国家神道と天皇崇拝の一部としか見ない極端な考えを持っている。国家神道は本来の神道とは異なるものであり、明治維新による中央集権のための新たに作られた道具に過ぎない。この事は何度も書いているが、世間、特にマスコミをはじめとする歴史を学ぼうともしない既得権者と呼ばれる変化を嫌う者たちは、依然として戦前から続く天皇崇拝を当たり前のように報道したり議論している。この原因は何なのであろうか。それには二つの原因があると見る。

一つは未だに中央集権という既得権を手放そうとしない我が国の官僚機構であろう。戦後の占領政策によって天皇を神とした思想は廃止された。しかしながら靖国神社という道具は残り、戦争で犠牲になった兵士の鎮魂のためという偽りの理由で、未だに靖国神社への参拝の是非が大きな問題として議論され、その本質は隠されたままに世論操作の道具にされている。天皇のために、国のために死んだとされる者たちに参拝しないものは国賊であるかのような極端な意見を吐く官僚の操り人形化した亡国の政治家のいかに多い事か。

もう一つは、やはり明治以来の廃仏毀釈によって過去からあった仏教などの精神的な裏付けとなっていた宗教的な基盤の喪失があり、その代替手段としての天皇崇拝が精神的なよりどころになっている事が大きいと考える。すでに明治や大正期に教育された大多数の人々は亡くなられているが、それらの人々に教育されて育って多数の人々のどこかには、親から知らず知らずに受け継がれた天皇崇拝の気持ちが残っていると考えるのは自然である。教育とは恐ろしいものだ。正しい歴史観の教育が戦後はなされておらず、歴史とは受験のための暗記モノに成り果てた事で、大多数の日本人には歴史観という最も大事な教育がされないまま今日に至っているのである。これによって天皇制は何の議論もなされないまま、戦前と同じような形で隠然と残されたままでいる。

本来、原始神道のもとの神社とは社(やしろ)もない、森とか巨岩とか、山そのものを神として存在していたものに過ぎない。仏教が日本に入った事で寺社建築がなされた影響から神社にも社の建設が始まったのである。基本的に原始神道は自然崇拝というものが原点であって天皇制とは無関係である。明治の天皇制は江戸時代の国学である平田神道をもとに作り上げられた天皇教ともいうべきものであり、それを国民の思想教育に利用するために作り上げられた全く人工的な宗教の一つに過ぎない。政教分離という西欧の憲法を基本に作り上げた明治憲法に抵触しないため、明治政府は国家神道を宗教ではないものと勝手に定義した事は有名な事実である。今日の天皇制を擁護する人々の大多数は、未だに国家神道の影響のもとのまま、知らないうちに間違った天皇史観を持たされているのである。古事記や日本書紀に見られる天孫降臨神話によってわが国が作られたとするのは、本来の日本にいた土着の縄文人を征服した中国などから渡来した弥生人の征服を正当化するための物語に過ぎない。天皇制は大宝律令の完成によって、太政官制度のもとで象徴性になった事で今日まで続いたのである。古来からこの国は官僚が天皇の名のもとで支配していた国なのである。

我々は正しい歴史観を持つ必要がある。天皇制を否定はしないが、それを絶対化する事は危険である。明治以来、たかだか百年少しの時間しか経っていない天皇教という思想を絶対化する事は危険である。国家神道の背景も知らずに天皇制を語る事は間違いである。天皇は神ではない、それは過去から続く政治のための道具であっただけである。その認識なくして現代という時代の中で、国民は何を精神的なものに求めるかは政府が強要するべきものではない。各人が過去の歴史から探すべきであり、しっかりとした議論を経て教育にもそれを正しく反映させるべきものなのである。

発展という直線思考の行きつく先に何があるのか

明治以降の我が国は西欧の思想による科学技術の発展を土台として国家を変えて新しい国を作り上げた。急激な変革のために中央集権による富国強兵政策が取られ、国民は新たに作り上げられた国家神道によって天皇を神としてまとめ上げられたのである。この結果、江戸期においてすでに高い識字率を持った国民が多数存在したことが短期間の西欧化を実現可能にし、わが国は急激な発展に成功した。逆に言えば、本来持っていた過去からの高い精神的なものは急速に失われていったのである。

西欧思想の根底にあるものは人間中心の科学技術による発展の思想である。自然や動植物を支配して科学技術によって発展する。その発展は果てしなく続くものという神話になっている。今年より来年、来年より次の年はもっと良い生活が待っているという果てしのない楽観論である。人間は過去のような終末史観を捨てた事で、永遠に発展するという幻想を持ってしまったのである。この結果、世界は自然破壊が急速に進み、熱帯雨林は急速に失われつつあり温暖化などの地球環境の大変化がおき始めている。発展は自然の搾取によって行われてきた。19世紀からの200年程度の短い期間による地球の変化は過去の何十万年にもなる変化に匹敵するほどの急激なものとなっている。現在は発展途上国の急激な成長によって、過去の米欧が経験した問題が繰り返されようとしている。世界はますます狭くなり、人間は発展という名の下でどんどん物質化していくように思える。すでに西欧の哲学者は、過去の物質的な発展だけの世界観に対して間違いを認めようとしている。

我々は物質的なものの発展こそが生活を豊かにし、その結果として大きな満足が得られるものと思い続けて、現在もその考えが大多数の人々を支配しているように思える。原発事故は、突き詰めればこの考えの中で発生した究極の結果に見える。直線的な発展という思想は正しいのであろうか、誰もその事を考えていないように見える。世界はあまりにも精神的なものを棄て去ってしまったように見える。それは理念のない政治家たちを見ればわかるだろう。経済的な問題ばかりが論じられる薄っぺらい議論に終始してきた結果、わが国の政治家たちも官僚たちも世界からバカにされるだけの存在に成り果てている。政治家は公約を平気で破り、官僚といわれる国家公務員も地方公務員も、全員が「おおやけ」という概念を捨てた私利私欲の集団に成り果てている。教育を取って見ても道徳は忘れ去られ、科学技術のための道具のようなものだけが大切にされ、人間は機械のような扱いになったままである。

全ては毎年良くなるものとして政治も考えられ、経済的に発展できない事で国民は不満をもち、小泉改革と称するもので競争の理念だけが持ち込まれた結果、国民の中に格差という大問題が生じたいびつな国になってしまった。政権交代して国民の生活が第一というスローガンを信じて投票した国民は、その理念を棄て去った菅直人と野田という2つの政権の裏切りによって、完全に政治家に対する信用を失っている。ここにも最低限の道徳の欠如が露呈している。自分で言った言葉を平気で破るという嘘をつく政治家を誰が信じるのであろうか。それを恥とも思わない人間が多数存在する事に今さらながら驚かされるのである。

我々は今一度考え直さなければならない。人間には進歩という変わることの存在と、変わることのないものの存在がある。それが信仰という精神的なものであろう。仏教であれ、国家神道ではない本来の原始神道であれ、全てに生命を見る思想は見直すべき価値が十分にある。江戸期の武士階級に見られた公私のけじめを強く持たせた儒教の思想も大事だろう。これらの過去からの優れた精神的な思想を見直さない限り、現代の物質的な発展という直線的な思想だけではわが国は立ち直れないだろう。すでに国民は疲弊しきっている。精神的なよりどころを失った国民が行き着く先は何なのであるのか。その答えを我々は自問しなければならない。世界を救う思想を我々が提示できるかもしれないのだ。その時、はじめて日本国民は誇りを取り戻すことができるだろう。

この国の権威主義という大問題

過去に何回か書いたが「権威主義者」とは、誰が何を言ったかで判断する人々である。これに対して「合理主義者」とは、何が言われたのかを考えて判断する人々である。日本ほど権威主義者が多い国は独裁国家を除いてないのではないだろうか。

この問題はあらゆる分野に及び、政治、行政、学者などの知識人、芸能界などのあらゆる分野に見られる。政治は従来の制度の枠の中だけの中身のない論争を繰り返し、何も決定ができない。参議院というものが決定権を持つという制度が問題なのに、その改革どころか議論さえしない。行政は官僚という公務員が間違いを認めないという傲慢性から、権威主義と官僚の利権だけで物事が決められ、無駄な政策の山となり、税金は国民のために使われず、巨額の米国債がいくら保有されているのかという情報さえ開示されない。学者や大学などの研究分野においても、従前のものが正しいという前提だけで独自の仮説を立てる事さえしない研究者ばかりになっている。さらに官僚の恣意的な補助金政策のもとで御用学者ばかりとなり、原発事故に見られるような政府に都合の良い事だけを言うだけの宣伝の道具と化している。芸能界では過去の人気や賞を得たというだけで面白くもない芸人ばかりがメディアを独占し、政治やニュースにまで人よせパンダとして使われている。国民もマスコミの世論調査に踊らされ自らの判断を放棄しているように見える。最も顕著な例は小沢一郎に代表される陸山会事件の対応だろう。検察特捜の暴走によって、記載時期のズレという犯罪にもならない事が大事件として報道されている事実は異常を越えている。事件、事故へのマスコミの対応のひどさは中国の鉄道事故どころの問題ではない。検察や警察、裁判官という権威をふりかざした報道は、わが国のマスコミの程度のひどさの象徴になっている。容疑者は裁判の判決の前から犯人扱いの報道になり、一般人は氏名から顔の報道まで大々的になされるのに、公務員、特に警察や官僚に対する報道は全く逆の対応が堂々とされている。

最も重大な問題は、戦後たかだか66年しかない民主制度が、あたかも機能しているかの如くに内容についての検証が何もなされない事である。行政をつかさどる官僚たちが立法行為から司法に至るまでを支配している事実は無視され、全ては政治家の責任として追及がなされているのはあまりにも程度が低すぎる。過去から存在している政策は正しいものとして、何の見直しの対象にもなっていない。普天間の移設一つを取っても、それを海外や沖縄以外に求めようとしただけで「日米関係が壊れる」、というマスコミや評論家たちの大合唱で潰されるという異常性を誰も非難しなかった。今になって野田政権の閣僚が沖縄にノコノコと出かけていくと、今度は県民無視と言ってしゃあしゃあと非難しているマスコミの対応には反吐が出る。全ては既得権というものだけが権威となって、それを変えようとすると皆で潰しにかかるひどい国になっているのだ。年金の支給時期が遅らされようとすると、その原因である少子高齢化を報道するのに、対策をとった「子ども手当」はばら撒きと非難した自分たちの責任は何も言及さえしない。そんな状況に国民までもが加担している事を我々は恥ずべきなのに、誰もが知らぬふりをして全てを他人任せにしている。選挙になれば4割にもなる人々が投票にも行かない国なのだ。権威主義という情けない考えを捨てない限り、絶対に国民主権の、国民の生活が第一の国は作る事ができない。何が大事なのかをもっと我々は考えるべきである。

道徳の原理をどこに求めるのか

米欧のキリスト教が土台の国家はキリスト教、中東においてはイスラム教が道徳のみなもとであることは間違いはないだろう。それら各国の規範は同一の神の範囲内だけに求められる規範であり、違う神の規範を受け入れないという一神教の根本的な問題がある。キリスト教ももとになるユダヤ教も、十戒の第一に「私のほかに神があってはならない」と規定して唯一絶対神しか認めない。これはユダヤ教から派生したイスラム教も同じであり「アッラー・アクバル」で、神(アッラー)は偉大なりという言葉がそれを示している。これらの宗教ではその範囲内にいる人々にだけ神の愛とか平等性が適用されるが、異教徒に対しては一転して情け容赦のない攻撃が下される。現代では世界が小さくなり、情報革命によりあらゆることが一瞬にして世界をかけめぐる。さらに経済的にも各国は密接に結びつき、過去とは比較にならないほど人とモノの交流が拡大している。このように変化した現代において、一神教の問題をもっと論議しない限り世界に平和も協調も生まれないのは明らかである。人間は経済問題だけで動くものではない。その価値観は宗教というもので大きく異なっている事をもっと直視すべきなのである。

わが国は戦後、道徳という規範を無視し続けている。明治維新によって過去の仏教、神道、儒教などの全てを捨て、西欧の思想と科学技術に移入により国家を大きく変え、富国強兵のために天皇を神とする国家神道という一神教によって国民をまとめ上げる思想的な背景を作り上げた。道徳の規範は「忠君愛国」という名のもとに統一された思想教育が徹底的な行われた。西欧思想の移入により国家覇権主義は必然的に生じた結果、それは中国侵略から太平洋戦争になることで国は破綻した。敗戦によって戦前の思想は徹底的に排除され、国家神道は排除されたように見えたが、それは靖国神社の問題を見ればわかるように依然として官僚によって生き残りが図られようとしている。民主主義という制度が導入されたが、それは道徳に代わるものではなく、知識人といわれる人々も政治家たちも全員が精神的な規範を無視して現在に至っている。その結果、今の我が国は何の精神的な裏付けも持たない道徳観が失われた人間がどんどん増え続けている異常な国になっている。経済的な成功こそが人生の目的と化し、良い学校、良い会社、裕福な生活こそが人生の目的になり、その結果は欧米のような自己中心的な社会に成り果てようとしている。

やはり我が国に必要なものは、仏教における他人を救う利他の思想や、西欧の愛とは異なる慈悲という思想が必要であろう。慈悲の慈とは楽を与える事を意味し、悲とは苦しみを抜くことを意味する。また仏教では悪を他人の中には見ない。悪はおのれの中にあるとするのである。心の中に仏という神と悪という悪魔が存在すると考える。その悪をしずめ、仏を活かすことが大事と説くのである。これほど進んだ道徳はないだろう。逆に愛は執着になるので煩悩の一つとして見るというのは西欧人には理解できないかもしれない。ここが西欧思想と大きく異なる。全てを神に委ねてお任せするという思想ではなく、全てをおのれの心で解決せよというのが仏教の原則である。神はおのれの中に存在するのである。また仏教は一つの思想に極端に走ることを戒める。中道というどっちつかずのものとは異なる、どちらにも偏らない柔軟な考えを大事にするのである。さらに原始神道からは山も川も動植物も、全ての生命を人間と同じものとしてとらえ天台本覚の思想である山川草木悉皆成仏という思想になった。これによって人間も宇宙の一つの生命に過ぎないものになったのである。西欧思想の根底にある人間が自然を支配できるという思想と対極的な考えである。また江戸期に武士の思想の柱となった儒教の教えで最も強調されたものは「公私のけじめ」であった。公という主君や藩、国という「おおやけ」のものと自分の利害を徹底的に区別したものは武士道の基本であった。おおやけを利用しておのれの利益を図るような事は「恥」として絶対にしてはならない事として厳しく教育がなされた。この結果、わが国の知識人であった武士階級と、それ以外の仏教の思想で教育された国民の品格は、諸外国も驚くような高い品格を持ったものとして絶賛されてきた。今、我々は明治以来棄て去ったこれらの優れた思想を再度とりいれて道徳を取り戻す必要がある。その思想は世界をも救える思想になりうるのである。その時はじめて日本は、政治においても経済においても、世界から尊敬される国になると信ずるものである。
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