スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

未だに明治時代の天皇史観から離れられない日本人

日本人の大多数、特に年配の人々の中には、未だに神社を国家神道と天皇崇拝の一部としか見ない極端な考えを持っている。国家神道は本来の神道とは異なるものであり、明治維新による中央集権のための新たに作られた道具に過ぎない。この事は何度も書いているが、世間、特にマスコミをはじめとする歴史を学ぼうともしない既得権者と呼ばれる変化を嫌う者たちは、依然として戦前から続く天皇崇拝を当たり前のように報道したり議論している。この原因は何なのであろうか。それには二つの原因があると見る。

一つは未だに中央集権という既得権を手放そうとしない我が国の官僚機構であろう。戦後の占領政策によって天皇を神とした思想は廃止された。しかしながら靖国神社という道具は残り、戦争で犠牲になった兵士の鎮魂のためという偽りの理由で、未だに靖国神社への参拝の是非が大きな問題として議論され、その本質は隠されたままに世論操作の道具にされている。天皇のために、国のために死んだとされる者たちに参拝しないものは国賊であるかのような極端な意見を吐く官僚の操り人形化した亡国の政治家のいかに多い事か。

もう一つは、やはり明治以来の廃仏毀釈によって過去からあった仏教などの精神的な裏付けとなっていた宗教的な基盤の喪失があり、その代替手段としての天皇崇拝が精神的なよりどころになっている事が大きいと考える。すでに明治や大正期に教育された大多数の人々は亡くなられているが、それらの人々に教育されて育って多数の人々のどこかには、親から知らず知らずに受け継がれた天皇崇拝の気持ちが残っていると考えるのは自然である。教育とは恐ろしいものだ。正しい歴史観の教育が戦後はなされておらず、歴史とは受験のための暗記モノに成り果てた事で、大多数の日本人には歴史観という最も大事な教育がされないまま今日に至っているのである。これによって天皇制は何の議論もなされないまま、戦前と同じような形で隠然と残されたままでいる。

本来、原始神道のもとの神社とは社(やしろ)もない、森とか巨岩とか、山そのものを神として存在していたものに過ぎない。仏教が日本に入った事で寺社建築がなされた影響から神社にも社の建設が始まったのである。基本的に原始神道は自然崇拝というものが原点であって天皇制とは無関係である。明治の天皇制は江戸時代の国学である平田神道をもとに作り上げられた天皇教ともいうべきものであり、それを国民の思想教育に利用するために作り上げられた全く人工的な宗教の一つに過ぎない。政教分離という西欧の憲法を基本に作り上げた明治憲法に抵触しないため、明治政府は国家神道を宗教ではないものと勝手に定義した事は有名な事実である。今日の天皇制を擁護する人々の大多数は、未だに国家神道の影響のもとのまま、知らないうちに間違った天皇史観を持たされているのである。古事記や日本書紀に見られる天孫降臨神話によってわが国が作られたとするのは、本来の日本にいた土着の縄文人を征服した中国などから渡来した弥生人の征服を正当化するための物語に過ぎない。天皇制は大宝律令の完成によって、太政官制度のもとで象徴性になった事で今日まで続いたのである。古来からこの国は官僚が天皇の名のもとで支配していた国なのである。

我々は正しい歴史観を持つ必要がある。天皇制を否定はしないが、それを絶対化する事は危険である。明治以来、たかだか百年少しの時間しか経っていない天皇教という思想を絶対化する事は危険である。国家神道の背景も知らずに天皇制を語る事は間違いである。天皇は神ではない、それは過去から続く政治のための道具であっただけである。その認識なくして現代という時代の中で、国民は何を精神的なものに求めるかは政府が強要するべきものではない。各人が過去の歴史から探すべきであり、しっかりとした議論を経て教育にもそれを正しく反映させるべきものなのである。
スポンサーサイト
月齢・日付・時刻
この記事に対し意見を呟く
訪問者カウンター
全記事表示リンク
最新トラックバック
検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。