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日本の官僚制度と過去の中国の科挙制度について

中国の清朝まで連綿と続いた官僚制度である科挙の制度は、結局その排他性によって国を滅ぼす原因となった。儒教、特に朱子学を柱にした制度は逸脱を認めず、すべてを朱子学の考えに沿って行う事だけが目的化し、結果として硬直した制度が国家までを破綻させたのであった。己の思想以外のものは蔑視するだけで本質を見れなくなった典型である。江戸期の日本にも儒教の思想は武士階級の精神的なものの裏付けとなるものとして存在したが、わが国では儒教を制度としたことは幸いにも一度もなかった。それは学問の一部であっただけである。

現代の日本における官僚制度はどうであろうか。公務員試験に見られる日本の官僚制度は、その排他的な思想から科挙制度に近い亡国の制度になっていると考えられる。その背景にあるのは、明治以来続く西欧思想の絶対化による科学技術による国家の発展という前提である。官僚の条件は西欧思想の移入のための学問に高い成績を収めたものに限られ、科学技術による産業の発展だけが正しいとされる19世紀的な発想のまま変わっていない。しかも、戦後になって民主主義が制度化されたにもかかわらず、官僚機構は裏で隠然たる勢力を保持したまま現在に至っているのは何度も指摘してきたとおりである。政治家は自らの責務を放棄し、面倒な仕事を官僚に丸投げする事で国民の主権を無視し続けている。このままではわが国が過去の中国の清朝と同じ系譜をたどり衰退する事は間違いがないだろう。

戦後、わが国は敗戦のどん底から、教育程度が高く勤勉な国民の安い労働力によって急速に発展を遂げた。その競争力も労働力が高くなるにつれて急速に失われるとともに、米国一極主義に翻弄されたまま、自国の富を米国のために貢ぐような間違った政策の連続により国民生活がどんどん疲弊している。一方、官僚制度によって守られている公務員は、何の生産力もないのに多額の報酬と使い放題の税金により国民生活と大きくかい離した状態になっている。彼らは間違った自尊心で自分たちこそが国の盟主であるかのごとく尊大な姿勢のまま居続けようとしている。旧態然とした公務員制度をこのまま続けていたら国民の税金は何の意味も持たなくなり、結局なんの生産性のない公務員のための納税者という存在だけに国民が成り果てるだろう。

19世紀以来続いた西欧思想による科学技術による発展の歴史は数々の問題を露呈しているとともに、BRIC等の発展途上国による急速な経済成長のために日米欧などの過去の先進国は経済的にも過去の繁栄を取り戻せなくなった状態に陥っている。世界は大変革の時代に入っているのである。そんな中で、わが国は過去から連綿と続く無駄な公務員制度を見直せていない。このままではTPP問題でも分かるように、無能な理念なき政治家たちでは何も有効な政策も打ち出せないだろう。今、わが国に必要なものは、正しい歴史観を持ち、高い道徳観に支えられた民主主義による主権在民が実現できる政治家である。単に経済だけで国家を論じるような愚かさを続けてはならない。官僚が好き勝手にできる制度を排除し、公務員は本来の公僕に過ぎないものに変える事が今こそ求められている時はない。わが国を過去の中国と同じにしてはならない。明治維新を実現した優れた日本人たちはどこに消えたのであろうか。戦前から始まった昭和の時代になって以来、日本人の劣化が止まらなくなっている。

国家の最高責任者は詐欺師であった

詐欺という言葉を辞書で調べると「人をあざむき、又はだまして錯誤におちいれること」と定義されている。TPPへの参加問題について、社民党の福島瑞穂党首の国会でのこの問題の質問は正鵠を得ており、「参加するのか、しないのか、なぜ国会で表明しないのか」という質問にさえ答えようとせずに、党内手続きを優先することを理由に逃げてしまった。国権の最高機関という場での自分の考えの表明を無視し、マスコミを通じた記者会見の場でAPECへの出発直前の場において逃げるように次のように言い放った。「TPP交渉参加に向けて関係国との協議に入る」、事実上の参加表明であろう。情けない事に、反対派は関係国との協議という言葉だけを抜き出して、自分たちの主張が通ったかのような小芝居を打って出た事だ。民主党という政党の議員たちは、上から下まで国民をあざむく詐欺師集団であったのだ。こんな事で国民を騙せると思っているのだろうか。思っているらしいから余計に我々は腹が立つのである。

国家の最高責任者が、その参加の是非について国論が大きく割れている中で、多数の反対意見を無視したまま、理由も示さずに一方的に参加方針ととれる言葉を弄するなど、決して許されるものではない。すでにこの問題は貿易の自由化ではなく、制度の自由化という大問題があることは大多数の人々が危惧を表明している。その問題を無視し、GDPで比較すれば、参加9ヶ国の中で米国が90%以上を占めるという異常な構造がある問題を隠し、あたかもアジアの成長を取り込むことから遅れるような詭弁を弄し続けている。食品の安全基準や排ガスの基準などについても、韓国と米国とのFTAで問題が明らかになっているように、米国の基準の押しつけが具体化されることは火を見るより明らかだと多数が指摘している。さらに農林水産業の関税を無くすことになれば、大規模化においては比較にならないオーストラリアや米国の問題を無視し、参加する東南アジア各国も農業大国であり、その価格差については防ぎようがなくなることは明らかであり、わが国の農林水産業が壊滅する事になるだろう。

いかに貿易が大事だと言っても、国家は工業という産業だけで成り立つものではない。しかもGDPにおける輸出の比率は11%程度しかなく、大企業も中小企業も大部分は海外に進出しており、貿易立国などと言う言葉はもはや死語になっている。それを全て無視し、米国に我が国の市場と制度を明け渡すような協定への参加について、国民的な議論もなく、ましてや国会での議論もない中で、勝手に自分だけの判断があたかも国家を正しい方向に導くかのような詐欺的手法で強引にすることは断じて許されるものではない。孔子は「巧言令色鮮なし仁」と述べ、、「口先が巧みで、角のない表情をするものに、誠実な人間はほとんどない」と言葉だけの人間を厳しくいさめた。江戸期の武士階級は儒教による厳しい道徳観を持っていた事は有名であり、さらに古代においては原日本人には「言霊(ことだま)」といって、言葉には神が宿っており、それを破る事は許されない事と信じられていた。戦後、道徳という問題を忘れ去った日本国民は、ついに国家の最高責任者までもが言葉を弄して国民を平気であざむくような国になってしまった。我々は政権交代して、こんなにも情けない人間たちに政権を託したのかと思うと、言いようのない切なさと共に激しい怒りを感じる。もはや民主党という政党に政権を委ねる意味は何もない。政権交代時の公約を次々と破り、何も実行できない政治家など存在意義は何もない。過去の自民党や公明党と何が変わるというのか、国民を欺く詐欺師を絶対に許してはならない。

経済成長という言葉は何を意味するのか

すでに何度も主張しているように、西欧思想は科学技術の発展に従って人類は無限に発展するという幻想の上に立っている。しかも発展は物質的発展であり、人間としての精神的なものは置き去りにされている。デカルトの二元論による、思惟する自我という精神と、それ以外の物質という考えで西欧は自然を科学技術によって搾取する事で発展を達成してきた。さらにキリスト教という一神教は、神が人間を特別なものとして創造したという教義によってこれを補強してきた事も事実である。しかしながら19世紀以来のこの考えは、結局、神というものより人間が中心になった事で神を捨ててしまった。この結果、物質的な欲望が第一のままになり世界は明らかに行き詰っている。

わが国の問題も明らかにその延長上にあるだろう。確かに戦後の国民の努力によって高い経済成長力が達成され、国民は経済的な恩恵を受けたが、バブルが崩壊して以降は逆に停滞という問題から抜け切れず、経済の発展という神話を追いかけるだけの情けない国になっている。経済は永遠に発展するものであるのか、誰もこの根源的な問いを発せず、議論の対象にさえしていない。政治家も国民も経済という物質的な問題一色のまま何も変わらず、果ては世代間の不公平などと言う変な理屈がまかり通り始めている。若者は経済的な発展がない事から自分たちには利益還元がなされていないという不満をもち、過去に利益を受けた世代に対して反発を強めるというバカな構図が作り上げられようとしている。全てが成長という神話が当たり前という前提で進められているのである。誰もその問題を真剣に問うていない。本当に経済的な発展は永遠に続くのであろうか。人間は何を求めているのかという根源的な問題を誰も問わない。

我々はあまりにも物質的な問題ばかりに偏りすぎていないだろうか。誰かがそのような問いを発する時なのではないのだろうか。TPPの問題に代表されるように、アジアの発展を取り込んで日本も発展すべしというもっともらしい理屈が国を二分している。TPPはアジアではなく米国主体の経済連携協定に過ぎない。だからどうのこうのというつもりはないが、結局、行き着く先は、全員が物質的な発展という未来を思い描いているだけの話である。米国を見れば明らかなように、自由原理主義という究極の自由競争の果てに起きている事は何か、極端な貧富の差の拡大である。勝ち組がなければ競争に意味はないだろう。しかし、それを放置すればこのような結果になる事は明らかである。自由という問題の難しさはここにある。だからこそ我々は精神的な問題の重要性を問わなければならない時期に来ているのではないのか。「足るを知る」という仏教や老子的な思想は重要な問題を提起しているのである。

経済成長という言葉に安易に流されてはならない。我々はもっと精神的な思想の重要性を考える時に来ている。それを議論する事を提起する事こそ我が国が世界、特に東南アジアをはじめとする発展途上国に対してリーダーシップを発揮できる唯一の道である。また自国の中においても、正しい精神的な思想を持つことが世界から我々が尊敬される品格をもてることになる道でもある。物質の発展一辺倒という西欧思想の見直しは急務である。我々こそがそれをできる最初の国民にならなければならないし、我々にはそれを可能にする過去の素晴らしい精神史があるのである。経済だけという貧しい発想から抜け出ようではないか。

文化と文明について

文化と文明の違いの定義が最も端的に表されているのは司馬遼太郎による分析であろう。「文化とは日本人が三つ指をついて襖を開けるような特定の集団の中の価値観に基づく規範の集合体である。文明とは誰がドアーの前に立っても自動的に開くという自動ドアーのような状態になることをいう。」

これをさらに検証すると、文明とは科学技術による人間の行動の普遍化の促進と定義できるのだろう。西欧の人間中心の思想によって、世界はますます科学技術による発展だけが正しいようなかたちが19世紀以来続き、今日になって数々の問題で行き詰まりを見せている。その最たるものは原発問題や環境破壊、なくならない戦争問題であろう。宗教による問題も文化の違いという問題の一つとしてとらえれは、そこにも違いを認めるのか、認めないのかという問題があり、根深い問題の一つになっている。さらに世界は、BRICsと呼ばれるものに代表される新興国の経済的な対応でも混迷が深まり、新しい精神的なよりどころが求められる必要性が過去にないほど大きくなっている。

そのような中で、わが国の国民の精神的な劣化は著しいものがあり、現在のままでは到底、世界をリードできるような考えを誰も提供さえできる状態にないのは明らかであろう。政治家も知識人と呼ばれる者たちも、戦後の価値観の大逆転の中で、全員が道徳という問題を棄て去り、経済的な豊かさだけが全てを解決できるような幻想のまま今日まで来てしまっている。過去にあった優れた文化は、その後ろに存在する精神的なものを忘れた技巧的なものしか見れない状況が続いている。道徳のない社会は、物質的な欲望が優先されるものとなり、社会をリードすべき政治家や知識人といわれる者たちほどその劣化が目立ち、おおやけの仕事をするべき公務員である官僚、警察、検察、裁判官に至るまでが私利私欲だけしか考えない存在に成り果てようとしている。

過去に何回も同じ問題を提起しても、わが国の国民は道徳という言葉にさえ拒否反応があるかのように無視を続けているように見える。文明の追求だけで世界はどうなるのであろうか。その答えを問わなければならないのに、誰もが本質的な議論を避けているように見える。我々は異文化を認め、違う神という宗教も認め、共存共栄が可能な社会の実現を目指すべきなのではないのか。それが本来の平和憲法の求めるものなのではないのだろうか。わが国だけが戦争を放棄するだけで自国を守ることなどできるわけがないのは子供でも分かる理屈である。何をもって平和を求めるのかという大事な点を一つとっても国内に確たる思想がない。あまりにも情けない国になっている。たった一度の経済的な成功に酔いしれて、国民の幸福を何に求めるのかという議論もなく66年も過ぎてしまった現在、我々はもっと精神的な問題を深く考えるべき時に来ているのではないのだろうか。西欧至上主義による物質文明だけでは世界は必ず行き詰まりを見せるのは目に見えている。今、多くの国民がそれに気づいて、そして精神的なものの重要性を再確認すべきである。その上で、わが国の過去の思想の見直しと共に世界の思想を見て、人類にとってどのような思想が必要なのかを議論すべきである。異なる文化を認め、戦争のない世界を作り上げ、その上に自然とも共存できる素晴らしい文明を築きあげるべきである。19世紀以来の西欧の人間中心の物質文明の思想では世界はもはや救われない。ダライラマは先日の記者会見で、発展途上国に原発は必要だと述べたが、それに対して誰も反論さえしなかった。明らかにダライラマも西欧による科学技術文明こそが国民を豊かにできるものと勘違いしている。貧しい国が豊かになるためには支援が必要である。しかし物質的な支援だけでは良い結果はもたらさないだろうという典型を見る思いがした。精神の問題を無視して未来はない。

日本仏教の本質とは何か

仏教はキリスト教やイスラム教などと比較すると非常に分かりにくい。キリスト教などは聖書を見ればそれで理解できるが、仏教には統一的な理念を語る聖書のようなものは存在しない。無数の経典と多数の宗派があり、宗派ごとに異なっているように見えるからである。一見バラバに見える仏教であるが、そのエッセンスは同じである。また日本における仏教の理念も基本的には一つのものに集約できるであろう。現代にいたるまで仏教関係者は個々の宗派における解説はしてきたが、仏教全体としての総合的な解説というものを怠ってきた事は否めないであろう。その最たるものは鈴木大拙による英語による禅の解説をもっての仏教の紹介であろう。確かに海外での禅の理解は深まったが、仏教を禅としてしかとらえないという誤謬が生まれた事も事実である。小乗仏教と言われるものから大乗仏教に至った仏教が、日本においてどのように根付いていったかを知らずに仏教を理解する事は困難である。その本質は何であるのかを概説したい。

結論から言えば、日本仏教の本質は「天台本覚思想」というものにある「山川草木悉皆成仏」という言葉に集約されると考える。人間のみならず動植物にも自然にも仏が宿るというアニミズムのような思想は釈迦仏教にはない考えである。原始仏教は個人の悟りという救済が目的であり、それが大乗仏教になって他者の救済まで広げられたが、このように人間以外の全てのものにまで仏性を見るという考えは日本独特のものである。この考えはどこから来ているのであろうか。その答えは、明治維新で行われた「廃仏毀釈」という問題にあるのは歴史の皮肉としか言いようがない。廃仏毀釈以前の日本では、お寺に神社が同居するのは当たり前であった。中央集権のためにねつ造された国家神道のために、明治政府は仏教を神道から無理やり切り離して国民をまとめ上げる道具としたのである。その結果、仏教は壊滅的な打撃を受けて現在に至っている。教育の場から仏教の理念は100年以上も葬り去られた事で、日本国民の仏教への正しい理解は日ごとに無くなり、現代では殆どの人々は仏教の内容を理解できなくなっている。2千年にもなるわが国の歴史の中で、国民の精神的な中心をなしていたものが短期間に失われてしまったのである。我々は今一度それを取り戻す必要がある。

日本の根源にあるものは、20万年前から2千年前の稲作文化の始まりまでの、非常に長い期間の狩猟採集という縄文文化である。日本で発見されている縄文土器は世界で最も古く、はるか1万2千年前にさかのぼるものである。この時代の宗教観は人間は死んで、そしてまた生まれ変わり帰ってくるという循環の思想であった。また人間は自然の一部であり、動物や植物と同じ位置のあるものと考えられていた。それが原始神道につながるものになり、稲作をもたらした中国からの渡来人による日本の征服によって出来上がった大和朝廷というものの後にも無くなることなく、現代にいたるまで我々の中に連綿と続いているのである。今でもお盆という休みは最も長く大事なものであり、その期間は先祖の霊が返ってくるものといわれて数々の行事が続けられている。新しく生まれた子供は、亡くなった親族に似た子が生まれると、その生まれ変わりであると信じられてもいる。これは明らかに仏教の理念とは異なったものである。山が多い日本の国土では、森林は長きにわたり伐採されずに存続し、現在でも国土の60%以上は森林である。自然信仰は根強く、食文化も他国と異なり、刺身とか鍋料理が多い特異な文化を長い間もち続けている。このような中で仏教の中にも自然崇拝の考えがもたらされたのは自然であり、神仏混合が自然発生的に起きた事は不思議ではない。それは平安時代に最澄と空海による天台宗と真言宗という2大仏教の始まりから続いていると解釈できる。特に空海による真言密教の考えは自然の神である太陽の神としての大日如来というものが中心になるもので、日本人には受け入れやすいものであったことは確かである。天台宗でも密教の教義を受け入れる事で、真言密教に対する「台密」というものが大きく発展する事となった。これによって天台宗は日本仏教の総合的な大学のようなものとなり、後の鎌倉仏教である浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗の全ての生みの親となったのである。

江戸時代に入り、幕府によるキリシタン禁制のための仏教寺院の檀家制度によって、日本仏教は保護された事により、布教の努力や新しい宗派は出なくなり形骸化が進んだ。仏教は葬式が主たるものとなったものの、寺子屋という制度のもとでは庶民の精神的な教育の場としては存続していた。仏教の中にも循環の思想が入った事により、お盆や正月などの儀式の中に先祖供養は大事な行事として残されてきたのである。確かに大乗仏教の理念である「自利・利他」という他人を救済するという理念も大きなものであったが、日本仏教の中に占める祖先供養というものは一番大きな比重を占めるものとして存在している。死んでもあの世でしばらくいるだけで、新しく生まれ変わるという循環思想はDNAの存在でも科学的に証明されている。この思想を信じれは、死ということは怖いものではなくなるだろう。そして人間は宇宙のあらゆるものの存在の一部に過ぎないという、自然との共存という共生の理念も大きなものがある。わが国の国民の心の中に占めるこれらの優れた思想こそが日本仏教の本質なのである。この考えは西欧の人間中心で行き詰っている世界に対する人類の新しい考えとして十分こたえられる思想である。日本人は誇りをもって自分たちの思想の見直しに入るべきである。
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