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一神教において神は「ある」もの、仏教において神は「なるもの」か

以前ツイッターにおいて仏教における神とは「なるもの」との指摘を受けて、そうだと思ったが、本当にそうなのかをずっと考えた上、やはり違うのではないかと思った。正確に言えば仏教においては神は「なれるもの」だと結論した。この違いの意味を説明したい。

キリスト教などの一神教においては、人格神という絶対神の唯一無二の存在に対しての無批判の帰依が求められる。だから神は「あるもの」と定義できる。これに対して仏教などは如来や菩薩などの多数の仏という神が存在する。そしてある人は、それらに対して我々は「なるもの」と定義していると言う。しかし本質はそうではないと考える。あらゆる仏教の宗派は実践が大事なのである。考えるだけで実践を伴わない仏教に意味は何もない。だからこそ人もその他の生物にも仏性というものが存在し、それを発揮する事で仏になれるとしている。単に存在するだけでは仏にはなれない。なるという努力が必要なのである。人間以外の動植物や自然は厳しい環境のもとで精一杯に生きる事で仏性を発揮している。人間は漫然と生きていてはならない。自分をみつめ、正しい生き方を考え、そのうえで他人を助けると言う菩薩行を行い、それによって初めて仏という神になれるのである。だから単純に「なる」というものではない。やはりそこには努力というものが要求されている。だからこそ「なれるもの」という定義こそが正しいと思うのである。誰でも簡単に仏にはなれない。努力こそが大事なのである。

しかし浄土宗などの口唱念仏といわれるものはどうなのであろうかという疑問が出るかもしれない。しかし口唱念仏はあくまでも南無阿弥陀仏という念仏を唱える事で救われるというものであり、そこには仏になるという概念はない。浄土に行けると言う実践のための易行という概念である。やはり仏教の神髄は修行などの実践によるおのれの生命の見直しなのである。いかに正しく生き、欲望だけににかたよらず、他人のために生きると言う菩薩行ができるのかという自利・利他の業が必要なのである。それによって人は始めて精神というものの重要性を理解できるのである。我々は仏教をもっと哲学的な思想という観点で理解するべきである。単なる葬式などと言う儀式だけで解釈すべきではない深遠な思想を見直さなければならない。
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