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公約違反は我々が考えているより重要な問題がある

主権在民や法治国家や三権分立による民主主義を具体化する手段は選挙である。あらゆる事には全員が同じ意見を持つことはあり得ない。賛成する者と反対するものに必ず分かれる。どちらともつかない者は決定に対して文句を言う権利はなくなる。その意味で民主主義は過半数の賛成に対して全権をゆだねている。反対意見は考慮はされても、それを見直して過半数が賛成に変わらない限りは採用されない。

この意味で、選挙における公約は被選挙民と選挙民との契約と同じである。それは単なる口約束であってはならない。公約に基づいて選挙民は候補者を選ぶ。違った公約を持つ候補者が多数選ばれれば、自分が望む政策がなされずとも我慢するしかない。従って、選挙民も候補者も、次の選挙にまでに切磋琢磨してより良い公約を選び選挙に臨む。そうして常により良い国になることが図られるわけである。

今回の野田ブタによる八ツ場ダムの再開や、消費税の増税など代表される明らかな公約違反は重大な問題である。民主党を選んだ国民はもっと怒らなければならないし、そうでない国民も公約を破る行為に対して怒らなければならない。それは民主主義の根幹を壊す行為そのものだからである。過去、60年以上も自民党という一党独裁が長く続いた結果、国民は公約違反の何たるかを真剣に考えず、小泉元首相が「公約違反など大したことではない」と公言した時にも騒がなかった。全て他人事のように誰も真剣に考えてこなかったのである。その結果はどうなったのか。竹中平蔵による競争原理が正しいというだけの滅茶苦茶な論理により過去にないひどい格差社会になってしまった。公約を破られたら選挙の意味はなくなる典型である。

勿論、社会や世界の情勢により公約を変える必要がある時はあるだろう。しかしそれには誰もが納得するだけの合理的なものが必要であるし、それを国民に対して説明する義務が政権政党にはある。それを無視する事は断じて許されるものではない。もしするならば解散して総選挙により改めて国民に対して信を問い直す事は政治家の義務である。公約破りは人間として嘘をつくという最も許されない行為と同じ重要な問題なのだ。権力を持ったら何をしても良いなら、それはもはや民主主義ではなく独裁である。大きな勘違いをしている野田ブタ政権は直ちに解散して国民に信を問い直さなければならない。我々は裏切りを絶対に許さない。

さらに、公約とか交代のない官僚という組織が、政策や税金の使い道を勝手に行うことは断じて許してはならない。我々は余りにも民主主義というものを直視してきていない。誰かがやってくれるという甘えは捨てなければならない。自分たちの権利と義務をもっと真剣に考えないと、たんに増税されたりする「義務」だけの履行を求められる今のような歪んだ国のままに何も変えられないままなる。国民はもっと覚醒しなければならない。
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近代国家の定義とは何か

わが国が近代国家になったのは明治維新以降といわれている。それを何を意味するのか大多数の人々は正確に理解しているのだろうか。明らかに西欧の感覚による法治国家であるのか、そうでないのかの違いなのだろうか。その意味では独裁国家は近代国家ではないのか?、幸福度世界一のブータン王国と北朝鮮は何が違うのか、我々はもっと真剣に考えなければならない。

やはり英語でいうところの「State」と「Nation」という意味の語源が決め手ではないだろうか。Nation とは自然発生的な国にすぎず、State とは法治国家なのである。その意味でいえばわが国は明治憲法によってはじめてState になっただけで1889年に初めて近代国家になったと定義されるべきである。現在は2011年である事を思えば、わが国の近代国家はたかだか123年の歴史しかない事になる。しかも敗戦という1945年以前は立憲君主国家であって民主国家ではなかった。国民はこのような事実を理解して生活しているだろうか。敗戦によってあらゆることは考えなくなり、経済的な成功だけが人生であるかのような教育と社会的な思い込みのままに現在まで来てしまった。我々はどのような社会、国家を求めているのだろう。そんな自覚さえ殆どの人は持ち合わせていないのが現実ではないのだろうか。政治や政治家を非難するのに、何と40%もの選挙権を持つものは投票さえしていない。権利を行使もせずに文句だけを言っている。法治国家というものは何を意味するかさえ考えていない。与えられた民主主義という制度は名前だけで機能していない事も自覚していない。というより意図的に自覚できないような教育が続けられ、その事さえも教えられていない。知らないうちに官僚社会主義国家の中に住んでいるのだ。

民主党による政権交代で全てが変わると期待された。結果はどうなのか。あらゆる意味で民主党の議員たちは嘘つきだけのさもしい人間であっただけのことが分かっただけで、国民は本当に心底から怒っている。民主主義の基本である政治主導という言葉に託した期待は全てが裏切られた。国民は本当の意味の近代国家を期待したのに、それが託された者たちは、いとも簡単に寝返って、元の自民党と同じの官僚社会主義を選択した。今、国民は何も信じられなくなっている。国会議員と呼ばれる者たちは真剣に考えるべきだ。すでに国民は本当の意味で怒っている。その混乱の責任は間違いなく今の国会議員全員の責任である。近代国家の理念とは何か、それが求められているのは国民ではない、国民がその思いを託した国会議員たちそのものなのだ。裏切りの代償はとてつもなく大きいだろう、覚悟しておくべきだ。

マスコミの言う民意という嘘

始めは大阪市長選で橋下を非難していたマスコミ各社。圧倒的な差で現職市長を破った現実に手のひらを返すような態度に出ている。しかしこれには必ず裏があるだろう。全く違った現象は2年前の政権交代の時に起きている。圧倒的な民意によって民主党が政権を取ったにもかかわらず、新聞という媒体によって民主党を認めないと宣言した産経という新聞まで出てきた。その他の新聞も政治とカネという問題で小沢一郎の非難一色であった。どこも民意を無視して非難ばかりであった。

さらにひどい事に、沖縄の基地問題の象徴である普天間の移設について、鳩山元首相が県外や国外を模索する意見を表明するやマスコミは大反対一色になった。その理由は不思議な事に全てのマスコミが同じであった。まるで合言葉のように「日米関係が壊れる」という言葉であふれかえったのである。結局、根性なしの鳩山がマスコミの世論操作に負けて辺野古に戻るという結論になってしまった。しかしこれを彼一人の責任にすることには抵抗がある。ある意味、国民も沖縄を裏切ったのである。

次に起きた事は何か、子ども手当や高校無償化、高速道路の無料開放という目玉政策に対する「ばら撒き」という造語による大々的な世論無視の反対キャンペーンであった。その財源のための事業仕訳けについても反対を煽り、結局は官僚の思い通りに全てが有耶無耶にされていった。勿論、民主党の議員たちの理念と根性のなさの結果ではあるが、世論という言葉で本当の意味の世論による政権交代による意思をひっくり返したマスコミの責任は重大である。最も許せない事は、自民党や公明党が長年にわたり放置してきた国家の最重要問題である少子高齢化のための「子ども手当」潰しである。これは過去の自民党と官僚たちの常套手段である「補助金」というものによらない直接の支援政策のため、間に無駄な官僚組織が介在しない事から利権も発生しないやり方である。そのために自民党、公明党の責任隠しと共に官僚による総攻撃の的になった。 世論によって成立した新政権の最も大事な政策を、世論を無視して潰しにかかったマスコミとはなんと民主主義を無視した存在であるのか。それをほとんどの評論家や知識人といわれる者たちも非難しなかった。この国がいかに官僚に支配されているのかという見本のようなものである。

今、民主党は菅直人政権という増税発言で自滅した政権から野田ブタ内閣に移ったが、菅直人政権よりひどい状態に成り果てている。懲りもせず又しても公約を裏切り消費増税を叫ぶどころか、社会保障費の制度というものの議論もしないうちにその金額だけを問題にした切り捨てが行われようとしている。この内閣は菅直人よりもひどい裏切りを始めている。もはや民主党は存在意義を完全に失った。あらゆる意味で自民党と同じの官僚と一体化した社会主義政党に戻ろうとしている。国民は怒らなければならない。マスコミと官僚、民主党と官僚という官僚社会主義国家に戻りつつあることを怒らなければならない。そのためには解散総選挙しかない。どの政党にするのか、少なくとも自民党が復興する事だけは許してはならない。願わくば元の国民の生活が第一を掲げる新しい政党が出てくることを祈るばかりである。

国民と言う概念は何なのかを理解しているのだろうか

17世紀以来の西欧の思想から起きてきた民主主義の思想の中における国民とは何を意味してきたのだろう。明治維新によって封建国家から西欧の科学技術による発展のために過去の全ての思想を捨てて、西欧に侵略されない国を作るために武士という階級出身者たちは全く新しい国を作り上げた。その本質を理解せずに歴史というものを何も考えない日本人のいかに多い事か。今、我々が存在し、民主主義というものの中に生活しているという意識はどこから来ているのだろう。大多数の人は、この国にある民主主義という制度がどのようにもたらされたかも理解していないはずだ。ましてや国民と言う概念さえ理解しているとは思えない。だからこそ官僚という連綿と続く国民からの搾取で国を支配しているものの本質を見ていない。

明治維新以前に国民と言う概念はない。支配者と被支配者であり、特に江戸時代は士農工商という身分制度によって役割分担は明確であった。藩や幕府の役割は武士という階級以外において明確な役割分担が当たり前であった。藩や幕府という、国のために行うものは、戦争にしろ外交にしろ、武士階級以外の関与は例外を除いて全く存在していない。幕末の尊王攘夷という戦いも、武士以外のものは一切関わっていない。商人や農民は自分たちが関与する問題ではなかったのである。

明治維新による新しい国家の建設の中で、民衆は国への奉仕という事を名誉に思っていたのである。今までできなかった事に対して、むしろ積極的におおやけに奉仕する事に誇りを感じた。それが国民というものと理解していたのである。自己の権利よりも、過去の仏教の思想による利他の思想に近い忠君愛国という思想に共感を得たのである。国家神道による思想教育と相まって、日本人は国というものに奉仕する事が国民であると考えたのである。その結果、世界も驚いたほどの速さで西欧列強に伍すことができる国になる事ができたのであった。逆に言えば、そのために西欧の国家覇権主義を反省することなく、同じ間違いによって朝鮮や中国の侵略の果てに太平洋戦争で国を破綻させたのである。

その結果はどうであろうか。敗戦によって民主主義という制度が与えられ、過去の価値観はすべて否定されることになり、あらゆる意味での大混乱が起きた。唯一、国民だけはそれどころではなく、生活再建のために懸命に働き、世界が驚くほどの速さで復興を果たした。正に明治維新と同じ構図が再現されたのである。その違いは、明治維新が精神的なものを基準にした中央集権であったものであったが、戦後においては経済という物質的なものが基準になったものの違いであった。そのために経済の破綻による凋落がおきたあと、わが国は依然として立ち直る事ができずに今日に至っている。政治家も官僚も国民も、物質的なものだけで政治や生活を考え、あらゆる意味で進むべき道を見失っている。

なかでも、官僚といわれる国家公務員や、それ以外の警察、検察、裁判官、自衛隊を含む地方公務員と政治家などの全ての公務員の劣化はすさまじい。税金で生活している事を忘れ、税金を支払っている本当の意味の国民に対するおおやけという仕事の意味を忘れる事で、民主国家どころか社会主義国家になっている事すら気が付いていないようだ。国民も本来の意味する国民というものを理解せず、選挙になれば40%もの人が棄権し、権利も義務も放棄して他人任せの国に成り果てている。

このままではこの国は間違いなく北朝鮮以下の国になるだろう。我々は国民というものが意味するものは何なのかを真剣に考えなければならない。自分たちでその意味をもっと勉強し、何が国民なのかを知らなければならない。それ以外にこの国が民主国家になる道はないだろう。覚醒が求められているのだ。

仏教とキリスト教との違い

大多数の日本人は仏教を知らない。知らないというより知ろうともしない。過去の日本に連綿として続いていた優れた思想を知らないことは何という不幸なことであるのか。我々の生活にある多くのものには仏教の思想によるものが知らない間に入っている事にも気づいていない。明治以来の西欧文明至上主義がいまだに続いている結果、大多数の人はキリスト教などの一神教の方が優れた宗教と勘違いしている。しかもその内容の違えさえ分かっていないと思われるのにである。この誤解を解く意味でも、ここにその違いを簡単に述べてみたい。

仏教は釈迦に見られる個人の救済を求める小乗仏教と、個人のみならず他者も救うという大乗仏教に大別される。ここでは両者のエッセンスのようなもので仏教全体を述べてみたい。キリスト教は旧約聖書に基づくユダヤ教と新約聖書によるキリスト教になるが、その基本はユダヤ教にあることは否定できないのでユダヤ教の根本原理も含めて述べてみたい。

両者の違いを一言でいえば一神教という人格神と多神教である個人の中の仏という神との違い、並びに人間が中心となるキリスト教と自然が中心となる仏教という違いであると考える。キリスト教は唯一絶対神である神を認め、そこに全てを委ねる事で救済されるという思想である。神の決めた思想に基づき、教会を経由して神に帰依するカトリックと、神と個人との直接契約という過去の米国のピューリタン思想に代表されるプロテスタントに大別されるが、根本は同じである。契約により神の求める善行を行うものだけが救われるというものである。

これに対して仏教は釈迦から始まり如来や菩薩などの多数の神があり、人間は苦というものから離れるために修行や念仏により救われる事で仏になれると考えるものである。また人間は自然と同じ存在にすぎず、宇宙のあらゆるものはお互いに関係して独自に存在するものは無いという大前提の思想を持つ。

簡潔に書けば以上の違いで理解できると考えるが、仏教にはキリスト教のような聖書というものがないために理解しづらい事は否めない。宗派ごとに違う思想があるように見えるが、その根底を流れる思想はどこも極端に違う考えはない。どちらが優れているかという問題は個人が決めるものであるが、私の考えは、すでに何度も述べているように、一神教ではなく多神教である仏教こそが世界を救いうるという考えである。多神教に加えて、仏教はおのれの中の心の深い闇を見つめるという思想があり、その意味では神に全てを委ねるという意味で、一神教が異教徒というものを認めないという傲慢性を持たない。仏教における悪は常に個人の中の問題であり、一神教が神の名の下で正義を求めるという意味の、他人の中の悪を許さないという思想がない。すなわち原理的に闘争という概念を持たないのである。

もちろん世界は、西欧の人間中心の思想による科学技術の利用により大きく発展したことも事実である。しかし、現実を見れば自然破壊の問題や、戦争がなくならない事や、物質的な利益追求の極端な進行という数々の問題で、世界はあらゆる意味で行き詰まっているのは厳然たる事実である。我々は、現在の世界を短絡的に見ず、過去からの世界の人類の思想や歴史的事実を正確に見なければならない。その歴史的な背景を正確にもつことで初めて次にどの方向に進むべきなのかが判断できるはずである。物質的なものの豊かさと、精神的なものの大切さの両方があって、初めて人は幸せを獲得できるものと信じる。どのようなものが世界を救えるのであるのか、いま我々は問われている。事業仕訳けの結果を非難したある学者の言葉の「歴史の法廷に立てるのか」という問いは一見もっともらしい。しかし中身を見れば、彼のような物質的な意味だけのもので、しかも自分たちの利益だけのための意味のものには誰も感動もしないだろうし、ましてやだれも説得もできる訳がない。他人を思いやる心や、自然との共生のような、過去からの優れた人類の思想を見直さない限り、平和な世界も幸せな世界も作る事は出来ない。あのような見せかけの言葉や行動だけでは何も解決しないだろう。願わくば、わが国にはもっと優れた多数の国民がいる事を信じていたい。
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