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国民と言う概念は何なのかを理解しているのだろうか

17世紀以来の西欧の思想から起きてきた民主主義の思想の中における国民とは何を意味してきたのだろう。明治維新によって封建国家から西欧の科学技術による発展のために過去の全ての思想を捨てて、西欧に侵略されない国を作るために武士という階級出身者たちは全く新しい国を作り上げた。その本質を理解せずに歴史というものを何も考えない日本人のいかに多い事か。今、我々が存在し、民主主義というものの中に生活しているという意識はどこから来ているのだろう。大多数の人は、この国にある民主主義という制度がどのようにもたらされたかも理解していないはずだ。ましてや国民と言う概念さえ理解しているとは思えない。だからこそ官僚という連綿と続く国民からの搾取で国を支配しているものの本質を見ていない。

明治維新以前に国民と言う概念はない。支配者と被支配者であり、特に江戸時代は士農工商という身分制度によって役割分担は明確であった。藩や幕府の役割は武士という階級以外において明確な役割分担が当たり前であった。藩や幕府という、国のために行うものは、戦争にしろ外交にしろ、武士階級以外の関与は例外を除いて全く存在していない。幕末の尊王攘夷という戦いも、武士以外のものは一切関わっていない。商人や農民は自分たちが関与する問題ではなかったのである。

明治維新による新しい国家の建設の中で、民衆は国への奉仕という事を名誉に思っていたのである。今までできなかった事に対して、むしろ積極的におおやけに奉仕する事に誇りを感じた。それが国民というものと理解していたのである。自己の権利よりも、過去の仏教の思想による利他の思想に近い忠君愛国という思想に共感を得たのである。国家神道による思想教育と相まって、日本人は国というものに奉仕する事が国民であると考えたのである。その結果、世界も驚いたほどの速さで西欧列強に伍すことができる国になる事ができたのであった。逆に言えば、そのために西欧の国家覇権主義を反省することなく、同じ間違いによって朝鮮や中国の侵略の果てに太平洋戦争で国を破綻させたのである。

その結果はどうであろうか。敗戦によって民主主義という制度が与えられ、過去の価値観はすべて否定されることになり、あらゆる意味での大混乱が起きた。唯一、国民だけはそれどころではなく、生活再建のために懸命に働き、世界が驚くほどの速さで復興を果たした。正に明治維新と同じ構図が再現されたのである。その違いは、明治維新が精神的なものを基準にした中央集権であったものであったが、戦後においては経済という物質的なものが基準になったものの違いであった。そのために経済の破綻による凋落がおきたあと、わが国は依然として立ち直る事ができずに今日に至っている。政治家も官僚も国民も、物質的なものだけで政治や生活を考え、あらゆる意味で進むべき道を見失っている。

なかでも、官僚といわれる国家公務員や、それ以外の警察、検察、裁判官、自衛隊を含む地方公務員と政治家などの全ての公務員の劣化はすさまじい。税金で生活している事を忘れ、税金を支払っている本当の意味の国民に対するおおやけという仕事の意味を忘れる事で、民主国家どころか社会主義国家になっている事すら気が付いていないようだ。国民も本来の意味する国民というものを理解せず、選挙になれば40%もの人が棄権し、権利も義務も放棄して他人任せの国に成り果てている。

このままではこの国は間違いなく北朝鮮以下の国になるだろう。我々は国民というものが意味するものは何なのかを真剣に考えなければならない。自分たちでその意味をもっと勉強し、何が国民なのかを知らなければならない。それ以外にこの国が民主国家になる道はないだろう。覚醒が求められているのだ。
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仏教とキリスト教との違い

大多数の日本人は仏教を知らない。知らないというより知ろうともしない。過去の日本に連綿として続いていた優れた思想を知らないことは何という不幸なことであるのか。我々の生活にある多くのものには仏教の思想によるものが知らない間に入っている事にも気づいていない。明治以来の西欧文明至上主義がいまだに続いている結果、大多数の人はキリスト教などの一神教の方が優れた宗教と勘違いしている。しかもその内容の違えさえ分かっていないと思われるのにである。この誤解を解く意味でも、ここにその違いを簡単に述べてみたい。

仏教は釈迦に見られる個人の救済を求める小乗仏教と、個人のみならず他者も救うという大乗仏教に大別される。ここでは両者のエッセンスのようなもので仏教全体を述べてみたい。キリスト教は旧約聖書に基づくユダヤ教と新約聖書によるキリスト教になるが、その基本はユダヤ教にあることは否定できないのでユダヤ教の根本原理も含めて述べてみたい。

両者の違いを一言でいえば一神教という人格神と多神教である個人の中の仏という神との違い、並びに人間が中心となるキリスト教と自然が中心となる仏教という違いであると考える。キリスト教は唯一絶対神である神を認め、そこに全てを委ねる事で救済されるという思想である。神の決めた思想に基づき、教会を経由して神に帰依するカトリックと、神と個人との直接契約という過去の米国のピューリタン思想に代表されるプロテスタントに大別されるが、根本は同じである。契約により神の求める善行を行うものだけが救われるというものである。

これに対して仏教は釈迦から始まり如来や菩薩などの多数の神があり、人間は苦というものから離れるために修行や念仏により救われる事で仏になれると考えるものである。また人間は自然と同じ存在にすぎず、宇宙のあらゆるものはお互いに関係して独自に存在するものは無いという大前提の思想を持つ。

簡潔に書けば以上の違いで理解できると考えるが、仏教にはキリスト教のような聖書というものがないために理解しづらい事は否めない。宗派ごとに違う思想があるように見えるが、その根底を流れる思想はどこも極端に違う考えはない。どちらが優れているかという問題は個人が決めるものであるが、私の考えは、すでに何度も述べているように、一神教ではなく多神教である仏教こそが世界を救いうるという考えである。多神教に加えて、仏教はおのれの中の心の深い闇を見つめるという思想があり、その意味では神に全てを委ねるという意味で、一神教が異教徒というものを認めないという傲慢性を持たない。仏教における悪は常に個人の中の問題であり、一神教が神の名の下で正義を求めるという意味の、他人の中の悪を許さないという思想がない。すなわち原理的に闘争という概念を持たないのである。

もちろん世界は、西欧の人間中心の思想による科学技術の利用により大きく発展したことも事実である。しかし、現実を見れば自然破壊の問題や、戦争がなくならない事や、物質的な利益追求の極端な進行という数々の問題で、世界はあらゆる意味で行き詰まっているのは厳然たる事実である。我々は、現在の世界を短絡的に見ず、過去からの世界の人類の思想や歴史的事実を正確に見なければならない。その歴史的な背景を正確にもつことで初めて次にどの方向に進むべきなのかが判断できるはずである。物質的なものの豊かさと、精神的なものの大切さの両方があって、初めて人は幸せを獲得できるものと信じる。どのようなものが世界を救えるのであるのか、いま我々は問われている。事業仕訳けの結果を非難したある学者の言葉の「歴史の法廷に立てるのか」という問いは一見もっともらしい。しかし中身を見れば、彼のような物質的な意味だけのもので、しかも自分たちの利益だけのための意味のものには誰も感動もしないだろうし、ましてやだれも説得もできる訳がない。他人を思いやる心や、自然との共生のような、過去からの優れた人類の思想を見直さない限り、平和な世界も幸せな世界も作る事は出来ない。あのような見せかけの言葉や行動だけでは何も解決しないだろう。願わくば、わが国にはもっと優れた多数の国民がいる事を信じていたい。
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