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こころ貧しき国民にはなりたくない

日本は依然として米国至上主義のままである。その本家は格差の拡大で国が揺れている。日本は小泉・竹中による米国流の競争経済だけを取り入れ格差社会になってしまった。さらに経済成長至上主義のまま老人にまで働けというひどい国になっている。公務員国家になった事で税金は国民に還元されず、無駄な増税が図られようとし、そのために世代間格差なる言葉まで作られて社会は混乱している。要するに余裕を失っているのだ。未だに世界第3位の経済大国なのに貧困が拡大するなどひどい国になっている。バカな政治家や官僚に騙される事なく国民はもっと足元を見たほうが良い。政治家や官僚は何も生み出さないが、民間企業は今でも素晴らしい。それは江戸時代から連綿と続く国民の素晴らしい感性のおかげである。高い教育度、優れた道徳観、清潔さや几帳面さ、何かを作る時の完成度の高さを求める国民性、あらゆる意味で日本人は優れている。今の日本の問題は過剰な官の民に対する圧迫である。

何をするにも規制がはびこり、何をするにも補助金政策が関わり、何をするにも官が絡んだ無駄な組織が社会的なインフラコストを高くし、中央集権体制のままに非効率で高コストの国家を形成している。理念も、歴史観も、民主主義の何たるかさえも理解しない政治家が国会議員となり国を壊している。戦後からずっと国民は経済的な豊かさを求めて、懸命に働いて世界も驚くほどの短期間での経済的な成功を成し遂げた。逆に言えば、その成功ゆえに精神的なものがどこかに置き去りにされたまま今日まで来てしまった事になる。従って、経済的な停滞が続くにつれて、過去と同じ形の経済的な成功を求めても何も成功せず、反対にアニメやオタク文化などが大きく世界に羽ばたき始めていることに気付こうとしていない。税金は日本の将来のためという美名のもとに、科学技術振興とか宇宙開発とか海洋開発などの大型事業のための投資という名目で使われているが、誰もその使われ方を検証もせずに浪費され続けている。完全に税金が機能しない国になってしまったのである。

我々はもっと誇りを持つべきである。米国型の競争経済だけで社会は絶対に良くならない。米国は依然として若者経済の国である。老人は去れ、経済的に成長できる若者だけが、強い者だけが尊重される国のまま何も変わっていない。そんな国ではなく、循環経済を目指す成熟した国にすべきである。いたずらに経済成長だけを求めても何も生まれない。若者が未来を設計できる社会を作り、老人が無理に働く必要のない社会こそが本当に豊かな国なのだ。そういう豊かさを持って初めて豊かな文化が生まれ、結果としてそれが海外に対する新しい事業にもなれるのだ。もっと余裕のある社会をめざし、官が過剰に民に関与したり圧迫する国にしてはならない。競争だけのギスギスした社会では何も生まれない。国民が物質的だけでなく精神的にも豊かさを実感できる国にしなければならない。そのためにも少子高齢化を解消し、非正規雇用という若者の未来を奪う制度の改善は急務である。未来はいずれにしろ若者が作るしかないのだ。
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国民よ、納税者よ、いつまで騙されるつもりなのか

独法や特別会計の統廃合という言葉が飛び交っている。民主党が消費増税のために官僚からの入れ知恵のままに、形だけの改革という言葉によるものを導入しようとしている。過去、土光臨調というものから始まり、行政改革という官僚機構の姿の変更のための試みは何回もされている。その答えはどうなのか。現在の国の形が答えではないのか。その冷徹な事実を誰も見ようとしていない。全ての試みは失敗したのだ。JRを含めた民営化など何の意味もない。基本的にこれらの官営企業は民営という名前のもとに依然として天下り先のまま何も変わっていない。むしろ監査というものも入らない官僚のための独占企業になっただけである。高速道路はどうなのか、NTTは、JTは、良く考えれば分かるだろう。

なぜ変わる事ができないのか。国民はもっと考えなくてはならない。今度の民主党がやろうとしている独法などの統廃合で何が変わるのか。実質的には何も変わらない。公務員給与も議員歳費も削減という言葉の裏で何がなされているのか。それは2年間だけの時限的な削減とかいうまやかしである。天下り先の統廃合や特別会計の種類の統廃合をして何が変わるのか、よーく考えないとすぐに騙される。問題は予算が減るかなのである。来年度予算でこれらの統廃合の結果減るものはあるのかを追求すればすぐに分かる。一銭も、びた一文も変わっていない。こんな事を何十年も続けているのだ。もう国民もいい加減にこんな茶番に騙されてはならない。国家というもので一番大事なことは予算と法律なのである。

何度も書いているように、法治国家という制度のもとでは主権の存在は誰が法律を作る者なのかで決まるのだ。その意味ではこの国は閣法制度というもので官僚という行政府の職員が全てを作っているのだから「主権在民」ではなく「主権在官」なのである。法律によって予算が決められるのであるから、税金を支払う側への配分は常に少なく、税金で生活する公務員や政治家だけに配分が多くなされるのは当たり前である。なぜなら政治家と官僚が一体化して国民に対して行政に関するあらゆる情報は開示されずに、都合のいい数字だけがマスコミを通じて流されているからだ。国家の基本となるあらゆる情報が官僚側にあったら、一体、正しい行政とは何なのかを国民は一切判断できない。我々国民はあまりにも過去からの成り行きで基本を無視し続けてきている。国家の経済が過去のような右肩上がりでなくなっている今、税金がどのように使われなければならないかは、過去とは比べられないような重要な問題になっている。税金は支払う側に還元されるために存在する。それでなければ払う意味はない。本質を考えて国民は行動しよう。

せめて来年度予算についてもっと声をあげよう。官の人件費や経費、天下り先経由の補助金政策の見直し、それらの全てに対して大幅な予算カットを求めよう。組織の統廃合なぞ何の意味もない。全体のパイを国民の方に多くすることこそが大事なのだ。これ以上、税金を使う側の勝手にさせてはならない。その意味では次の選挙ではどのような者を国会議員として選ぶべきかもよく考えよう。選挙は近い。

儒教の問題点とは何か

江戸期の武士階級の倫理観が高かった原因は、明らかに儒教による高い道徳観を求める教育であったことは否定できない。しかし儒教の本質を理解しないと中国や朝鮮のように制度化した場合に起きた問題を理解できないだろう。わが国は幸いにも全面的な制度化はしなかった。ただ水戸藩を中心とした朱子学による、本居宣長や平田篤胤による国学という影響が、尊王攘夷や明治維新での国家神道という一神教を生み出したことも忘れてはならない。

儒教は、基本的に中国古代の堯・舜、文武周公の古えの君子の政治を理想の時代としており、世界はそれ以降、悪くなってゆくだけという考えに基づいた発展思考が欠如した思想が内在した傲慢なものである。最も古い時代が最も正しいという論理で未来の発展を否定している。その結果、中国は西欧の科学技術による発展というものを正しく見る事ができず、結局、清朝は欧米列強からの侵略によって破綻した。日本が明治維新で西欧思想を受け入れて開国した事と真逆の結果となったのであった。さらに中国にあった中華思想は自国が最も進んだ国であり、外国は夷荻と呼び差別し卑下していた。それが外国を排斥する春秋時代の言葉の攘夷というものになった。

朝鮮は中国に隣接する事から、その圧倒的な力から国を守る意味で、早くから中国化する事で国を守る意味で儒教を受け入れ、中国以上に儒教の教えが強く国民に浸透されていた。制度として導入した事で中国と同じく近代化という国家体制は大きく遅れた。その結果、わが国からの侵略を中国と同様受けた事は歴史の不幸である。

その後、中国は日本が廃仏毀釈によって過去の思想と決別したのと同じことを、共産主義による一党独裁体制で国を作り変えてきた。過去の思想の決別を行い、ようやく現代の発展をもたらしたが、今のままの物質的な要求だけの思想では必ず行き詰まりが来るだろう。19世紀的な国家覇権主義は何も機能しないのは明らかで、チベットを始めとした周辺諸国との摩擦は何も新しいものは生み出せない。今後、中国がどのような国になっていくのか、それは共産主義を越えたどのような精神的な思想を取り入れていくかにかかっている。

わが国は戦後の一時的な経済的な成功に酔って、敗戦以来、なんの思想的な問題の見直しが無いまま今日まで来ている。精神の問題を忘れ、物質な問題でしか国家を見なくなっている状態で新しい国家や世界と議論などできるとは思えない。国家神道ではない原始神道や仏教の根底を流れる自利・利他の思想、排他的な部分を除外した儒教の強い倫理観の思想などを組み合わせた、世界に通用する自然と人類との共生の哲学を作るべきである。世界は一神教や人間中心の西欧思想、未来を否定する儒教思想では絶対に良くならず、何も解決はできないだろう。日本から世界に対して、過去の優れた思想による新しい思想を発信すべきである。

宗教の本質とは何かを考える

仏教やキリスト教などの問題をつたない知識で述べてきた。しかし、宗教の本質とは何なのであろうか。人間より上の存在を認めなくなった現代人は、科学技術こそが正しいものとして、宗教とか神の問題を迷信ととらえて真剣に考えなくなってきた。何が問題なのかを考えて、その原因のようなものについて自分の意見を書いてみたい。

人間は物質的な問題だけで生きる生物では絶対にありえない。日本でいう心、西欧での理性というものの存在は重要な問題である事は間違いがない。だからこそ宗教が生まれ、神々が生まれてきた。人は生きるために他人や自然との関わりにおいて、どのようにすることが最もふさわしいのであるのか、という問いに答えるものが宗教ではないのだろうか。自分だけの繁栄を求めるのか、それとも別のものとの関係にも価値観を認めるのか。世界はそれによって現在が形作られてきたのではないだろうか。西欧思想と日本や東洋の思想との違いは何なのかが問われている。

一神教の問題はすでに述べてきた。自分の信ずる神だけが正しいという思想は、過去と異なり世界が圧倒的に狭くなった現代では、それは争いのもとになるだけである事も述べてきた。仏教の理念も述べてきた。しかし、現実的にわが国の仏教界は何もしていない。特に東日本大震災において、仏教界の沈黙は驚くべきことだった。長い間の仏教の理念はほとんど死滅しようとしている。その問題点を生意気にも指摘しようと思う。

仏教はキリスト教やイスラム教のような聖書という普遍的なものが存在しない。宗派ごとに異なる理念があるかのごとくに千差万別に見える。その事が仏教というものをますます日本国民から遠ざける原因になっているように見える。殆どの仏教界の人々は、その根本に流れている哲学を論じようとしない。禅なら禅の問題だけ、日蓮宗なら日蓮だけ、浄土教なら法然や親鸞だけ、平安仏教に至っては貴族宗教だの祈祷宗教という一言で片づけられている。これでは一般の日本人でさえ仏教の何たるかが理解できるわけがない。ましてや外国人に理解できるとは到底思えない。今の仏教界はあまりにも物質的に仏教というより自分の宗派を見ているだけに思える。個々の人間にとって宗派の問題より、その理念が何なのかのほうが大切なはずである。個別だけを見る事で全体を見失っていると言わざるを得ない。禅であれば坐禅とか無だけが論じられ、浄土教であれば法然の口称念仏や親鸞の教行信証の問題、等々の個別の問題が論じられて一般人は混乱に陥る。その根底に流れる釈迦の苦からの離脱の問題や他人も救うという大乗仏教の自利・利他という基本的な問題の提示があまりにもなさすぎるのではないだろうか。各々の宗派を作り上げた者たちは、時代々々の要求のために苦悩し、考えて独自の思想を作り上げてきた。しかし、その根底にあるものは同じであると考える。

宗教は神の問題である以前に哲学としてとらえるべきではないだろうか。何が人にとって正しいものであるのか。その正しいと言う事はどのようにして獲得できるのか。それが道徳というものの基本なのではないのだろうか。世界が過去と変わってきたなら、過去には正しいと思われた哲学も変わらざるを得ないのではないのか。ならば過去の神もそのままでよいのだろうか。神もまた変わるべきなのではないのだろうか。いや変わることなく正しい神がいるのであれば、それはそれとしての議論が求められるべきではないのか。我々は物質的な問題の議論ではなく、我々より上の存在としての神のあるべき姿をもっと真剣に論ずるべきではないのだろうか。それなくして世界の平和とか、戦争の問題とか、人類の発展とかいう問題は決して解決されないのではないのか。その意味では宗教という哲学をもっと論ずるべきであると考える。神というものを固定的な観念で考える事が正しいのか。現代の人間に求められている問題はその事ではないのだろうか。

新興国家の経済発展によって、世界はどんどん物質的な要求が強くなっている。それによって過去の西欧や日本がおかした間違いを繰り返してはならない。情報技術や移動手段の発達で、世界は過去と比較にできないような、極端に狭い世界になっている。その新しい世界に、どのような哲学を持った宗教、あるいは神がふさわしいのか。それを我々が提示するべきではないのだろうか。多神教という自然崇拝をもつわが国の長きにわたる歴史の中にこそ、世界を救える思想があると確信する。人類自体の共存共栄、そして人類と地球という自然との共存が、今までにないほど重要になっている。それはキリスト教などの一神教や、西欧の人間中心の思想だけでは決して解決できない問題である。宗教は目的ではない。人間が正しく生きるための道具に過ぎない。神を冒涜する意見だとして怒られるのを覚悟して敢えて述べた。けれど、仏教においては神は「あるもの」ではない。「なれるもの」なのである。そのなれるための努力こそが宗教としての本質なのではないのかと考える。

罪と罰の違い

ドストエフスキーの同名の小説の内容にも深いものがあるが、ここではもっと単刀直入に「罰」という法律的な問題と、「罪」という精神的な心の問題に分けるものを考えてみたい。端的に言えば、死刑に意味があるのか、また最近の犯罪被害者の家族による厳罰を求める声について意見を述べたい。ここで述べる事は山折哲雄という宗教家による「悪と日本人」という本の内容の写しのようなものである。興味のある方は原著を読んで頂きたい。

すでに何度も述べてきたように、明治維新という国家体制の変革に伴い、わが国は過去の思想を封印し、西欧思想による近代国家の確立を行った。科学技術による発展により富国強兵国家を作り西欧列強による中国が西欧各国に侵略されたような悲劇を避けるという選択を行った。そのために、廃仏毀釈というものによる過去の思想の廃棄による天皇中心の一神教である国家神道が捏造された。国民はこの国家神道によってまとめられ、教育勅語に代表される忠君愛国という言葉によって道徳教育がなされた。西欧思想の移入の結果、国家覇権主義が当然のように考えられた結果、わが国は太平洋戦争によって自滅した。その結果、昨日まで正しかった道徳は否定され、民主主義に基づく新しい価値観だけが正しいものとされた結果、道徳を何に求めるのかが現在まで忘れられたままになっている。日本人の宗教や心の問題についてはこのブログにも何度も書いてきたので省略する。

本題に戻り、厳罰主義で犯罪は減るのかという事を考えよう。冒頭の「悪と日本人」に書かれた内容を簡単に述べれば、今から100年も前に菊池寛は「恩讐の彼方に」という本と「ある抗議書」の2冊を同じ年に発表している。片や人を殺めて、その罪の重さに気づき、その償いの意味から世のため、人のために尽くすことで贖罪を図ることで救われようと決意し、海のそばの危険な道を避けるためにノミ一つでトンネルを作り上げる物語、もう一方は、死刑判決を受けた受刑者がキリスト教に帰依する事により、喜びに満ちて死んでいったことを遺族が政府に対して抗議するという事実の物語りである。菊池寛は何が言いたかったのかを当時の新聞に掲載されていた「大菩薩峠」という中里介山の小説の主人公による、殺人に私情を挟まない非情性と共に考察する。明確に結論は書かれていないが、やはり人間にとって法律的な罰だけでは解決にならない。人間より上の神というものの存在に基づいた道徳を基本とした罪というものをどのように考えるべきなのか。その大事さを提示していると考える。戦後以来、経済至上主義のままに精神の問題を忘れた我々は、今、死刑などを含む厳罰主義にどんな意味があるのか。ただ厳罰を求めるだけで何が解決になるのか、新しい年にあたって考えるべき時がそろそろ来たのではないのかと思う。
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