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罪と罰の違い

ドストエフスキーの同名の小説の内容にも深いものがあるが、ここではもっと単刀直入に「罰」という法律的な問題と、「罪」という精神的な心の問題に分けるものを考えてみたい。端的に言えば、死刑に意味があるのか、また最近の犯罪被害者の家族による厳罰を求める声について意見を述べたい。ここで述べる事は山折哲雄という宗教家による「悪と日本人」という本の内容の写しのようなものである。興味のある方は原著を読んで頂きたい。

すでに何度も述べてきたように、明治維新という国家体制の変革に伴い、わが国は過去の思想を封印し、西欧思想による近代国家の確立を行った。科学技術による発展により富国強兵国家を作り西欧列強による中国が西欧各国に侵略されたような悲劇を避けるという選択を行った。そのために、廃仏毀釈というものによる過去の思想の廃棄による天皇中心の一神教である国家神道が捏造された。国民はこの国家神道によってまとめられ、教育勅語に代表される忠君愛国という言葉によって道徳教育がなされた。西欧思想の移入の結果、国家覇権主義が当然のように考えられた結果、わが国は太平洋戦争によって自滅した。その結果、昨日まで正しかった道徳は否定され、民主主義に基づく新しい価値観だけが正しいものとされた結果、道徳を何に求めるのかが現在まで忘れられたままになっている。日本人の宗教や心の問題についてはこのブログにも何度も書いてきたので省略する。

本題に戻り、厳罰主義で犯罪は減るのかという事を考えよう。冒頭の「悪と日本人」に書かれた内容を簡単に述べれば、今から100年も前に菊池寛は「恩讐の彼方に」という本と「ある抗議書」の2冊を同じ年に発表している。片や人を殺めて、その罪の重さに気づき、その償いの意味から世のため、人のために尽くすことで贖罪を図ることで救われようと決意し、海のそばの危険な道を避けるためにノミ一つでトンネルを作り上げる物語、もう一方は、死刑判決を受けた受刑者がキリスト教に帰依する事により、喜びに満ちて死んでいったことを遺族が政府に対して抗議するという事実の物語りである。菊池寛は何が言いたかったのかを当時の新聞に掲載されていた「大菩薩峠」という中里介山の小説の主人公による、殺人に私情を挟まない非情性と共に考察する。明確に結論は書かれていないが、やはり人間にとって法律的な罰だけでは解決にならない。人間より上の神というものの存在に基づいた道徳を基本とした罪というものをどのように考えるべきなのか。その大事さを提示していると考える。戦後以来、経済至上主義のままに精神の問題を忘れた我々は、今、死刑などを含む厳罰主義にどんな意味があるのか。ただ厳罰を求めるだけで何が解決になるのか、新しい年にあたって考えるべき時がそろそろ来たのではないのかと思う。
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