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日本型経営システムの放棄が日本をダメにした

小泉・竹中路線による徹底的な日本型経営システムの破壊によって、バブル崩壊以降に下降線をたどり続けていた日本経済は決定的な打撃を受け、国民生活は大きく変えられてしまった。彼らの取った米国型の競争の原理主体のものは、過去にあった日本型の優れたシステムの破壊以外のなにものでもなかったのである。わが国は戦後の急激な経済成長の原理を見直す事なしに、世界経済の枠組みの中で活力がそがれて言った事にも気づかず、日本型の経営は時代遅れでありグローバリズムというものには合わないものだという迷信のような考えに取りつかれたままである。終身雇用や稟議書によるボトムアップ形式を捨て、欧米型の個人の能力主体の企業を渡り歩くような形態こそが正しいものなのか、誰もが思考停止の状態に陥っている。これは明治以来の西欧至上主義を、戦後になってそれを誤解して適用しているようなものである。

終身雇用がなぜ悪いのか、そこには年功序列形式というものに対する偏見から来ているのである。本来の年功序列とは、入社して見習いのような形から個々人が経験を積むことで業務に精通しながら昇進するものである。それを今の公務員制度のように、個々人の能力に無関係でトコロテン式に誰でも昇給していくような形だと誤解している事に問題の根源があるだ。競争の原理の中で一つの組織が機能してゆく優れたものである事を、日本の経営者たちは何も学んできていない。誰が終身雇用のような保障のない組織の中で生産性を高めたり、コストの削減に努力して会社を良くしようとするであろうか。我々はもっと原点に返り、単なる経済というだけで社会を見ずに、その中にいる人間という観点から経済のあり方を見直すべきである。経済を目標にするのは明らかに間違いである。それは単なる手段に過ぎない。その意味では、現在の非正規雇用の問題を早急に解決する努力がなされなければならない。

企業、特に製造業において日本が強かったのは、ボトムアップ方式のOJT型の教育によって社員が育成されながら年功序列形式で優れた生産技術などが継承されてきたからに他ならない。西欧型の企業に縛られない個人主体の移籍型の雇用形態であれは、そこにあるのはロボットと変わらない単なる労働力としての単位の集まりに過ぎないものとなる。そこにはマニュアルという統一手順だけの世界だけの仕事という、生産性も考えない人間の集まりになるだけの会社となってしまう。どちらが優れたものなのか、我々はもっと冷静に考えるべきである。

とにかく劣等感を捨てなければならない。グローバリズムへの対応と日本型の経営の問題は全く無関係である。いたずらに欧米型の経営方式だけが正しく、日本型のものは全て間違いという迷信を捨てなければならない。戦後になって過去の全ての価値観の逆転が起きたように、バブル崩壊が起きて以来、日本人はあらゆる意味で自信を喪失し米欧こそが正しいという間違いを犯している。我々の中には過去から続く素晴らしい思想がある。それは仏教や原始神道の自然崇拝などと同じの米欧とは異なる優れたものがあることを再認識しなければならない。過去のものを正確に知りもしないで、何が正しいものなのかという事で騙されてはならない。今一度、昔からの我が国の組織のあり方を学び直すべきである。日本に本来からあるものに自信を取り戻す事、それが日本再生の第一歩である。
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世界が新しい思想を必要としている理由とは

過去、世界は交通手段や通信手段において現在とおおきく異なり、その結果、世界はとても大きな広いものであった。結果として一つの国家という中での思想は他国にとって排他的なものであるという矛盾は殆どなかった。農業革命による都市文明の発展が進み、国家というものが拡大し、複数の国家をある国家が征服するという状況がおきた時でさえ、世界はまだ未知の地域が多数存在していた。その状況は、西欧の科学技術の発達に伴い変わり始めて西洋と東洋、米国大陸という関係の中で徐々に世界は狭くなっていった。その狭さに比例する事で国家間や文明間の闘争は酷くなり、18世紀の後半に産業革命がおき、結果として西欧文明が世界を統一していく。

人類は都市文明が勃興した紀元前500年前後の500年間に偉大な思想家を生んだ。ソクラテス、釈迦、孔子、およびキリスト教の先駆者たる第二イザヤである。農業革命によって、人類が過去とは比べ物にならないほどの高い生産力によって発展をし始めた時である。そして西欧文明が世界を征服するとともに西欧至上主義が世界を覆い始めた。わが国は有史以来、インドと中国からの偉大な文明と思想を学び取り、明治以降は西欧思想を取り入れて今日に至っている。15世紀以来、世界中が西欧の国家覇権主義により大きく影響を受け、スペイン・ポルトガルによるトルデシリャス条約では、両国が世界を真っ二つに分けて支配するという事までがおきた。そして英国がこれらの国を打ち破り海上支配権を持つことで大英帝国が出来上がると共に、産業革命と共に世界の覇者となっていったのである。西欧の思想の元はユダヤ教から派生したキリスト教であり、それは中東ではイスラム教となっていく。東洋においてはインドで発生した仏教が中国やスリランカを経由して東南アジアや朝鮮、日本に伝播する。一方、中国においては儒教が国家思想になっていった。これらは工業革命が起きて現在になっても基本的に変わっていない。

しかしながら、高速の航空機やITによる情報通信革命により、世界は過去とは比べ物にならないほどに狭くなっている。一国で起きた出来事の情報は、IT技術による通信によって瞬時に世界を駆け巡り、新しい製品は高速交通手段で瞬く間に世界中の市場にあふれかえる。このような中では、過去の特定の集団だけに求められた規範や価値観だけでは何も機能しなくなっているのは明らかである。人類は二度も大きな世界大戦を経験したのに、未だに世界から戦争はなくならない。物質文明が大きくなることで、人間の精神の問題はどんどん希薄になり、神という存在さえも、科学技術で証明されないものは迷信という一言で片づけられる世界になっていこうとしている。人間が中心の自然を搾取する事で発展してきた世界は、逆に自然破壊によって苦しむという皮肉な結果を生んでいるように、世界はあらゆる意味で過去の西欧思想だけでは立ち行かなくなっている事が明らかにされている。

このような背景だからこそ、世界には過去の狭い範囲だけに求められたような価値観に基づいた思想ではないものが求められるのである。それは何が最も求められるものであるのか。それこそ何度も主張している多神教に基づく共生の哲学である。明治以来、西欧思想に基づいて国を作ってきた経験のあるわが国は、それ以前の仏教や原始神道の自然崇拝という長い伝統を持っている。そこにある、あらゆるものに生命を見る思想、他人をいたわる利他の思想、個人というものを深く見つめる思想の中にこそ世界を救いうる大きなものがあることに気づくべきである。自国の歴史の中にこれだけ優れたものがあることに現代の日本人は気づいていない。人間中心の経済というものだけではない新しい思想を発信できるのは日本だけである事に気づかなければならない。我われこそが西欧思想も知り、西欧以外の思想も知っているのである。世界を救える新しい思想を提供できる大きな可能性を持っているのである。

戦争なき世界は実現できるのか

米国によるイラクやアフガニスタンに対する戦争行為は何の結果も得ることなく終わりを迎えようとしている。イラク国民やアフガニスタン国民こそいい面の皮である。このような一国による勝手な都合による戦争行為を国連は非難するどころか西欧各国や日本までもがそれに加担してきた。いったい戦争はなぜ無くすことができないのか、世界中の人々は真剣に考えているだろうか。自国が貧しくて他国の事など考える余裕のない国民には過酷な要求かも知れない。しかし我々は何のために国連などがあるのかをもっと真剣に考えるべきだろう。特に第二次世界大戦の戦勝国の枠組みの中で作られた内部構造のままでは、現在の発展途上国の大幅な躍進が実現している世界の状況の中では、それが本来意図したもののように機能していない事は明らかだろう。特に安全保障に関する常任理事国だけの決定という構図は機能せず、結局は利権となっているだけのものに成り果てているだけである。

いずれにしろ以前から書いているように、世界は西欧の闘争の原理というものでは戦争はなくせないだろう。国家覇権主義は19世紀から機能しなくなったとはいうものの、その背景にある思想が変わっていなければ、実態は別の形の他国への侵略が何らかの名目で続くだけであろう。西欧の過去のやり方は、他国や他国民、並びに自然からの収奪経済に他ならないのである。冷静に分析すれば、現在の世界の不安定要素はイスラム社会に対するキリスト教国家による過度の反応と、その裏にある資源に対する利権獲得の争いが最も大きいと考えられる。すでにマルクス主義による共産国家対民主国家というイデオロギー抗争は終りを見ており、今後は発展途上国と言われた国々と米欧などの過去の先進国家といわれた国々との軋轢が問題になるのであろう。すでに核開発という問題によって米国中心の米欧とイランは敵対して、ホルムズ海峡の問題で一触即発のような報道が続いている。中東各国は民主化の要求で揺れ続け、東アジアは中国の覇権主義がどうなるかに各国が神経をとがらせている。その背景にあるものは西欧の科学技術による経済的な発展という直線思考である。それは自然の略奪により発展が続けられたものである。このままでは世界の資源の争奪がひどくなるのは明らかである。

このような状況の中から、我々は戦争というものをどのようななくすことが可能なのかの答えを見つけなければならないのである。残念ながら、今の我が国の政治家にも官僚にも、誰一人としてこのような問題を語れる人間が存在しない。戦後以来、長きにわたり経済の問題だけで政治や国家を考えてきた結果がこの結果であろう。そして平和憲法の問題をまともに議論してこなかったつけでもあるだろう。軍備を持たないという事と国を守ることは同じなのかに対する明確な答えを避け、曖昧なまま国防問題を避けてきたつけが至る所で噴出している。

答えは以前から主張するような西欧の闘争の思想からの脱却であろう。人間中心の科学技術による発展だけという思想ではなく、一神教による特定の神を信じる者だけが救われるというものではなく、自然との共生、他国民、他宗教の神々との共生、宇宙の全てに生命を見る闘争ではなく和合の思想、それらと闘争という競争の組み合わせの新しい思想が必要なのである。仏教や本来の意味する八百万の神の発想のある神道が意味する、全てのものに生命を見る思想が世界を救いうる思想になる。世界は西欧の思想こそが正しいという呪縛から脱却する必要がある。それが何を意味するのかは、明治以来の西欧思想で今日まで来た日本こそが理解できるものである。我われこそが世界を戦争や自然破壊を止める事ができる思想を語れるのである。もっと我々の過去の歴史と西欧の思想、仏教や中国の儒教などの思想を学ぶ必要がある。現在の思想は紀元前の農工革命による都市文明の時に作り上げられた思想である。工業化による新しい文明ができた世界に対する新しい世界的な思想が必要なのである。

人はなにに感動するのであろうか

太平洋戦争に負けてから、我々の世代の親たちは戦前の道徳や価値観の全てが180度変わった事に戸惑い、また逆に、多くの人はこれで天皇のために死ぬという重しから解放された事も事実であった。多くの国民は戦争で疲れ果て、なんというバカな戦争をしたのかという思いを持ていた事はぬぐいきれない事実であった。そのため、米軍の進駐軍による支配には驚くほどの従順さで国民は従ったのも事実であった。しかしながら、過去の価値観が完全に変わった事で、我々は精神的な裏付けも失ったことも事実であった。

明治の教育の基本は、西欧思想による科学技術による発展というものを基本にした富国強兵であった。そのために過去から続いた幕藩体制からの脱却と、中央集権による国家の統一のために平田神道による国家主義を基本としたものから天皇を神とする国家神道が作られることで、国民はその思想のもとで統一されることになった。このような一神教的なものは本来の神道とは全く異なる異質のものであったが、当時の情勢を考えれば優れたものと言ってもよいものであったと思われる。国民の道徳もこの思想のもとで教育され、国家は天皇の元でまとめ上げられたのであった。結果としてわが国は、諸外国も驚くほど急速な発展を遂げ、明治維新は成功したのであった。その代償として、廃仏毀釈というもので過去から連綿と続いていた、仏教と本来の神道が融合していた神仏混淆の思想は完全に破壊されることとなってしまった。過去の仏教による高い精神的な思想までもが忘れ去られることとなってしまったのである。

この結果、戦後の価値観の逆転と共に、過去の仏教や本来の神道の思想の全てが教育から抜け落ち、道徳の基本的な思想が完全に欠如したまま我が国の教育は現在に言っているのである。戦後、制度として導入された形だけの民主主義が、あたかも道徳のような扱いとなり、国家主義的なものの全てが教育の場から捨て去られると共に、マルクス主義的な価値観が教育の場では正しいかのような形で広がった事は事実である。その影響は今も大きく残されているといって良いが、それは決して良い結果にはなっていないことも事実であろう。教育は戦前にもまして、良い学校への入学、良い会社への就職による物質的な成功が目的となり、精神的なものは完全に忘れられたものとなり現在に至っている。昭和61年(1986年)、バブル経済の真っただ中、NHKによる昭和という題材で取材を受けた司馬遼太郎が次のような衝撃的な言葉で語った。「若い人がマネーゲームに勤しむ。つましい収入を得る事を誰も教えない。これでは社会は崩壊するのではないのか。」「今の我が国の繁栄は長く続きません。産業の繁栄の神様は必ずよそへ移ります。その時、落ち着いて老いさびた国に、日本をどうやって作っていくのか・・・・真剣にそれを考えないと・・・」と述べて絶句したという。それが今、まさに我々の前に現実に表れている。

我々は経済的に成功した多くの人々を知っている。しかし、その生活を羨ましいとは思っても、その人間がどのようにして成功したのかを見て、そこに精神的な苦労の果てにたどりついてことを感じない時、なぜか尊敬の念はわいてこない。成り金、まさにその言葉が脳裏に上がり、心のどこかで軽蔑する。過去の仏教や、江戸期の武士たちの倫理観の基本としての儒教的な教えが無くなったとはいえ、我々の心の中にはどこかにそれらのものが残っている。その精神的なもの抜きに我々は感動しない。昭和の企業家の多くは自分の信念を曲げなかった事で成功した人々が多数いる。それらはマネーゲームのようなものとは無関係の優れたモノづくりに裏打ちされた人々である。その信念に基づく行動には心打たれる。そこに見られるものは精神的な強さとか倫理観、人のために尽くすという利他の思想があった。そのような者が失われれば、結局この国は何も生み出すことはなくなるだろう。

現在のような経済的な発展ばかりを述べる国は決して世界からも、自国民からも尊敬される国にはならないだろう。世界もすでに西欧思想での行き詰まりが明確になっている。わが国として世界とどのように向き合うのか。それは我々が過去に持っていた優れた思想を見直し、その循環の思想や多神教的な戦争を回避する思想などの優れた思想を持って世界に広げる事が大事なのではないのか。我々は物質的なものも大事にし、同時に世界に通用し、世界を救う精神的な思想を確立するべき時にいるのである。

武士道の本質とは何か

大多数の日本人は武士道という言葉は知っていても、その本質の意味するものは何なのかをあまり気に留めていないように思える。たまに聞く葉隠などの「武士道とは死ぬことと見つけたり」などという言葉だけで何となくわかったような気でいるだけに思える。そして明治時代の忠君愛国という国家神道のもとの天皇絶対主義に対する、単なる忠という問題のように誤解している。武士道において主君は絶対のものではない。大きな間違いのままに理解すると悪用されるだろう。

江戸期の武士の教育の基本は儒教による倫理的なものであったことはすでに書いてきた。しかし本来の儒教における最高の得とされる孝とは親に対するものを絶対のものとしている。儒教は血のつながりを最も重要視する。従って近親相姦はもっとも忌み嫌われる。韓国などが同姓での結婚をしない理由はここにある。日本においては忠孝一致という概念では親よりも主君とか天皇とか、最も上の身分の者に対するものと変えられてきた。しかし武士道における考えは根本的に違う。武士道を一言で言えば、それは「絶対的な倫理観に支えられた個の確立」である。

そもそも武士の始まりは、関東などで発生した自分で開拓した土地を自分のものにすると言う開拓農民の武装化である。荘園制度のもとに、全てが貴族や僧侶に独占されていた土地を自分のものにするために発生したものに他ならない。一生懸命という言葉は間違いで、正しくは一所懸命が正しい。自分の土地を懸命に守ることを意味したものである。そのために馬に乗ったり弓を使う事を主体にした武芸の発達とともに武士階級として固定化していったのである。

戦国時代を経ると、土地の所有という概念は藩主という主君に限られたものに変わり、武士階級には戦士とともに官僚的な行政の問題も加わっていく。そのために主君への絶対服従が武士道のような誤解が出た。本来の武士道は次のようなものに要約できるだろう。

武士道とは忠義という主君に対する盲目的な服従ではない。その基本は武士としての戦闘者としての名誉の掟が最優先にくる。戦場においては一番槍を入れ、うしろを見せず、自己の名誉を侵害するものは何が何でも討ち果たし、窮地にいる仲間は見捨てることなく助け、約束したことは必ず実行し、ことを処すには未練を残さず一命を賭して行う。

このような倫理的なものに裏付けられた「個」の確立こそが最も求められたものであって、主君への忠義というものは付帯的なものであり、武士としての付帯的な自己滅却の行為の一つとして捉えられていたに過ぎない。実際、江戸時代には主君に義なき場合には「主君押込」というもので、主君が自藩等を正しく治める事が出来ない場合には、家臣たちによる監禁の上に強制的な隠居にされることが数多くなされている。主君に義なき場合には己の信ずるものに従った行動が求められていたのである。さらに、自己の名誉を侵すものは、たとえ主君であってもその不当を強く申し出る事さえ求められているのである。主君の絶対性を認めたうえで、その判断は武士としての「個」が最終的に行うものとされていたのである。「首を刎らるるとも、おのれがすまじき事はせず。」という言葉はここからきている。その倫理観の根底には、特定の個人ではなく、万人に尽くすという利他の思想や、無常という空の思想から来る「あらゆるものは常に変化しながらが壊れる状態(死)に向かって動いている」という仏教の考えがあった事は確かであろう。いずれにしろ現代と異なり、過去の時代では病気や飢饉などの社会的な環境の中では、死というものは今よりはるかに身近なものであったことは否めない。個が組織の中に埋没せずに、自立的に存在していたからこそ江戸期の武士たちは対応能力が高く、それゆえに国家としても強いものになり得たのである。

日本人であるなら、せめて武士道というものの本質の正しい理解を望みたい。それが理由で歴史が歪曲されたり、間違った倫理観に利用されることがあってはならない。テレビなどで驚くのは学者が出てきて、新渡戸稲造はこのように武士道を海外に紹介したなどと言って、他人の考えだけの紹介者であるだけのものの氾濫である。これでは正しい意味の武士道は紹介する資格もない。日本の知識人の欠陥である自説での紹介がないものはまがい物に近いと思った方が良いだろう。自分で調べ、正しいものを見つける姿勢こそが求められるのである。
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