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矛盾の思想・禅

臨済という禅は公案という問答により悟りを助けるという。曹洞宗は坐禅という実践を重視する。禅は「無」というもので象徴される。西田幾多郎は禅の思想から絶対矛盾の自己同一という哲学を作った。それは何を意味しているのか。禅の公案に、木に登り枝をくわえるだけで動けなくなっている者に師匠が問いを放つ。答えれば口が開いて墜落して死ぬ。その絶対的な矛盾の中に真理を見るというものである。西欧思想とは全く逆の考えに西欧人は驚く。矛盾のない世界を求めるのが西欧思想であり、それを追求する事で科学技術も哲学も発展させてきた。しかし世界の実態は矛盾そのものである。だからこそ多くの西欧人は禅の中に真理を見て驚くのである。

我々は明治以来、西欧思想こそが正しいものと、その移入に躍起になって過去の八百万の神という本来の原始神道や、中国や朝鮮を経由して移入した仏教や儒教の思想を放棄してきた。そして太平洋戦争に敗北して、米国をはじめとする西欧による民主主義という制度の移入で、過去の価値観を180度転換する事になった。明治維新の西欧の科学技術の思想はそのままで、天皇を神とする国家神道の全体主義国家の覇権主義が完全に否定されたのである。西欧型の合理主義が教育に入り、その結果が宗教というものの否定になり、道徳までもが無くなってしまったのである。そして米欧人が「禅」というものに驚くと、それだけが目的化して仏教を禅、無というものだけで見るというバカな事態が日本を覆い尽くすことになった。まさに禅の言う矛盾が日本を覆い尽くしたのである。おかげで竜安寺の石庭は大繁盛し、日本は無という言葉で覆い尽くされてしまった。しかし仏教は「無」というものだけなのであろうか。それを我々は問い直さなければならない。

西欧思想こそが正しいとする明治以来の考えは時代遅れとなっている。世界は明らかに西欧思想で行き詰っている。その思考過程のなかでの「禅」というものの見方にも我々は反省すべきである。仏教、中でも日本仏教というものの正しい理解が必要なのである。「無」だけで仏教を理解する軽薄な考えを見直さなければならない。人間の善なるものと、悪であるものを凝視する深い思想、それこそが仏教の本質である。小乗仏教という自分の中の苦からの脱却のための悟りの問題だけではない、他者の救済にも重点を置いた大乗仏教が日本仏教の主流である。小乗仏教は奈良仏教と呼ばれるものに限定されているが、大乗は平安以降の天台宗、密教の真言宗に始まり、その後の鎌倉仏教と言われる浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、禅宗は日本中に多くの信者を持つ。密教と禅は他者を救うという利他の思想よりも自分を救う自利の思想が強い。なかでも禅は分かりにくい。その大きな原因は前述のとおり矛盾というものを通して、絶対的な自由の考えにより坐禅という実践を通じて自身の中の仏性を働かせる事で悟りに至るというものである。禅は自分の外にある仏像を拝まない。禅寺には基本的に仏像はない。あるのは祖師である僧の像などに限られる。個人の中の仏性というものを追求するためである。禅の神髄は既存の価値にとらわれない自由な心、論理や理屈を超えたものにある真理の追究。全ては己の中にあるとする人間の心の追求である。そのために坐禅という実践を通じた強い倫理観というべきか、戒律を守る意志が求められる。理屈では分からない、それを超えたものが求められるのである。日本の禅は、中国で栄えた時のものが移入された事で、そのなかに中国的なものを見てしまう。どこか儒教に通じる徹底した現実的な考えともいうべきものがその根底にあるように見えるのである。

以上で私の禅に対する考えを終わる。我々の中にある仏教というものを語るとき、特に外国人が最も興味を示す「禅」というものにどのような思想があるかを示す助けなれば幸甚である。
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