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仏教というものの理解を難しくしているもの

キリスト教には聖書という一つの経典があり、イスラム教にもコーランという経典があるように、これらの宗教には細部が違っていても基本は同じである。しかるに仏教というものは宗派にもよっても異なり、小乗と大乗というものでも思想は異なって見える。それが発生したインドを経て、中国、朝鮮を経て日本に到達して、その中身についても土着の思想と結びつくことでさらに複雑化したように思える。経典は無数に存在し、それらすべてが釈迦の教えという事だけでは一致するが、その内容の違いが我々を驚かせる。どれが本当の教えなのか分からなくなるのは当たり前のように思えるのである。さらに日本においては明治維新の廃仏毀釈により、過去から続いていた神仏混淆というものが徹底的に破棄され、古くからあった仏教や儒教、原始神道のようなものは棄て去られた。新しい国家は西欧の科学技術による富国強兵のために、その道具として新しい宗教として国家神道というものを作り上げる事で国民をまとめ上げた。仏教は葬式という儀式だけのものに成り果て、国民の中から思想としては忘れ去られたのである。

我々は、この不幸な過去を見直さなければならない。日本人の歴史の中から仏教というものを考えずに、その優れた文化を理解する事は絶対に不可能である。今では本当の意味で仏教は単なる葬式のためのものに成り果てようとしている。そして同時に、過去からあった日本人の優れた道徳観も忘れ去られようとしている。西欧の資本主義的な考えによる生活は、基本的には欲望の無限の追及に他ならない。昨日より今日、今日より明日は必ず良い生活が待っているという幻想の中に我々は暮らしている。そのような生活の中で仏教の占める位置など何もなくなっているのは当たり前に見える。時代が進むにつれて日本人の心が殺伐とし始めているのはなぜなのか。我々は真剣に心の問題を問わなければならない。その意味で仏教というものの理解を深める必要がある。何が仏教という思想にあるのか、それをできるだけ簡略に述べてみたい。

原始仏教は釈迦の思想によるおのれの救済である。人生は苦であり、その苦からの離脱のためになすべきことを釈迦は説いた。それを涅槃と呼ぼうが悟りと呼ぼうが、いずれも自身がどのように苦から逃れられるかの追求であるに過ぎない。そこではおのれのそ悟りの追及のためだけが重要なものになっていただけである。俗世間から離れ、一人、山の中にこもり自分のあるべき姿を追求するという考えは生命そのものをどのように考えるのかという忘れたかのような思想になってゆく。それに反発する意味で大乗仏教というものが生まれる。人生を、生命を無視して何が生まれるのであるのか。おのれだけではなく他人も救済せずして何のための仏であるのかという考えが起きる。小乗という自利だけの思想に大乗では利他の思想が加わってくる。あたかもキリスト教のカトリックとプロテスタントのような違いが生まれるのである。この釈迦の教えというものを至上主義とする小乗あるいは部派仏教と呼ばれるものは、日本では奈良仏教と呼ばれるものである。大乗仏教は平安時代の最澄による天台宗から始まり、空海による真言密教を経て、鎌倉仏教と言われる浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗となり現代につながってゆく。これらの宗教は日本の原始神道と交わることで神仏混淆という形が作り上げられ、インドや中国とも異なる形で日本国民の中に浸透していったのである。いずれにしても、その中にあることは、欲望というものをコントロールするという意味で道徳の基本となる思想となっていった。なかでも真言密教は自然崇拝と共に煩悩即菩提とか即身成仏という意味で現世の肯定と共に、自利という側面が大きいものであるが、それは天台宗と共に多くの日本人の精神的なものの背景となっていった事は間違いはない。それらの思想はやがて鎌倉仏教というものを生み出す母体となったのである。

この流れは江戸時代になってから、キリシタンの規制のための檀家制度というもので新しい思想が生まれる素地を止められたが、仏教そのものが日本人の中から消えるという事にはならず、道徳の基本的なものとしての位置は変わることはなかった。武士階級では儒教、なかでも朱子学が基本的なものとして採り入れられて、仏教よりも儒教の教えが道徳の基本として深く取り入れられたが、仏教そのものが精神的に無くなることはなかった。これが大きく変わったのは、前述の通りの明治維新の富国強兵のための思想の大転換である。明治から太平洋戦争の敗戦まで、国民の道徳的な教育は国家神道による天皇を神とする全体主義的教育のためのものであったが、それは敗戦によってすべて否定された。天皇は神ではなく人間宣言する事により、この国から全ての神は消え去ったのである。その結果、日本国民から道徳の規範の全てが消えうせてしまった。あたかも民主主義が道徳であるかのような錯覚が生まれ、精神的な支えを失ったまま現代まで来てしまっているのである。今、まだわずかとはいえ、過去の仏教などの道徳の規範を持っている人間が存在するうちに、もう一度その復権が必要なのではないのか。それを我々は真剣に問うべきなのである。
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小沢一郎裁判に対する無罪判決の矛盾について

小沢一郎・民主党元代表の資金管理団体「陸山会」の土地取引事件で、小沢氏側は15日、東京第5検察審査会の「起訴議決」は無効だとして、議決の取り消しや、強制起訴に向けた指定弁護士の選任の差し止めを求める行政訴訟を東京地裁に起こした。原告は小沢氏本人で、被告は国。刑事裁判より前に、民事裁判の法廷で議決の有効性が争われることになった。小沢氏側が問題としているのは、本来の審査対象を超えた部分を審査会が議決に含めたのは違法ではないか、という点。市民団体による「告発事実」は、陸山会が土地を約3億5千万円で購入したのに、2004年分ではなく05年分の収支報告書に支出を記載したとする政治資金規正法違反の容疑だった。しかし、第5審査会が10月4日に公表した起訴議決では、土地の購入原資として、告発事実にはなかった「小沢氏からの借入金4億円」の虚偽記載容疑も、「犯罪事実」に含めて認定した(10年10月15日付『朝日新聞』)

これは検察審査会の2回目の議決に対する告発事実の変更についての記事である。本来、強制起訴に対しては、同一の訴因であるべきものが故意に歪められた事実を小沢一郎側が指摘したものである(不動産の取得時期と代金の支払時期のズレという検察が不起訴にした理由に、小沢氏から不動産取得代金の原資が提供されたことも含めて、虚偽記入の犯罪事実としてたことであり、これは完全に検察の不起訴理由を逸脱している)。結果は最高裁までもが内容についての判断は行政訴訟ではなく、刑事訴訟手続きの中で争うべきものとして却下した。要するに検察審査会は準司法機関であるという事による屁理屈をつけたわけである。強制起訴には検察審査会による2回の起訴議決が条件なのに、それが別の訴因でなされた事は明らかに違法である。そして小沢一郎裁判では無罪が言い渡されたが、裁判長の大善は、この4億円の虚偽記載を認定するという大矛盾を平気で判決内容に入れ、なおかつ起訴も有効であったと滅茶苦茶な判断を示したのである。しかしながら共謀という事実認定は出来ないという理由での無罪判断と理由を述べていた。

そして5月9日検察官役の指定弁護士が控訴の決定をしたのであるが、その理由もまた「看過できない事実誤認があった」という言葉で茶番を続けようとしている。何の事実が誤認されたかは具体的に述べられることはなかったのが笑える。陸山会事件においても検察の取り調べの違法性から、検察自らがその調書の大半を証拠から撤回したにもかかわらず、3人のもと秘書達は推認によって有罪という滅茶苦茶な判決が出された。今回の大善裁判長による判決内容は、その元秘書3人の有罪判決を補完するかのような内容に思える。しかしながら、検察審査会の手続きには明らかに瑕疵があり、それを無視した起訴の有効性の判断は完全に間違いである。本来は無罪ではなく「控訴棄却」であるべきものである。小沢一郎弁護団が、なぜこの検察審査会の2回目の議決内容の違いを裁判で追及しなかったのか理解に苦しむ。結果として、小沢一郎への意味のない裁判が続くことは権力側の不正を認めることになった。これでは国民の権利は守られるものではなく、権力側の意図的な作為で、裁判そのものがいかようにも変えられてしまう事を認めた事になる。この国はどこまでも異常な国に成り果ててしまった。
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