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維新の会と石原新党の裏にあるもの

石原慎太郎が都知事を突然に投げ出し、新党を作って第三極という連立の模索を始めるという。中身を見るまでもなく、彼の思想の背景は基本的に自民党と変わらない。それは国旗国歌の強要や、徴兵制度などを模索する橋下の維新の会も基本的に同じである。彼らは第三極などではない。単なる自民党という官僚と一体化した官僚社会主義者に過ぎない。

この理由の背景は単純である。それは天皇制をどのように見ているかで決まる。自民党も維新の会も、そして恐らく石原新党も、間違いなく天皇は国家元首であると言い切るだろう。それが何を意味するかは察しがつく。このように天皇制を利用しようとする輩が考えている事はただ一つ、それは時代錯誤の富国強兵である。彼らには、明治維新で武士階級が成し遂げた改革の本当の意味を理解していないのである。単に日本という国が強い国になったという結果だけを見ているに過ぎない。そこには徹底的に明治維新で武士たちが考えていた、真の意味の国家観というものの理解が欠落しているのだ。現代の世界で、過去の太平洋戦争という間違った国家覇権主義を再燃させるような愚を繰り返すことは断じて許されない。

明治維新とは、間違いなく西欧の巨大な武力と、その国力による「侵略される」という危機感から来た国家の変革である。科学技術というものによる発展によって得られた果実を日本も持たない限り、わが国が中国のように侵略されるという正しい歴史認識が背景にあった。そのために国家をまとめ、早急に西欧型の国に変えることで、西欧に負けない武力と国力の実現を目指したのである。天皇制は、その手段の一つとして国民という新しい概念の人々をまとめるために作られた宗教に過ぎない。そこで利用されてものは、江戸の後期に作り上げられた国学、特に平田篤胤による平田神道が採用されたのである。これにより国家神道というものが天皇を神として作られ、国民はその下にまとめられることで富国強兵のための制度が整えられてゆく。教育も、西欧の科学技術や制度の移入を目的とするものになり、英語、数学、法律が最も大事にされてゆく。精神的な問題は儒教にあった孝の原則を忠孝こそが第一というものに変えられ、天皇という国家への奉仕を基本にされたのである。もともと江戸時代には、武士を始めとしてその他の階級の者たちも、のちに西欧各国が驚くほど教育の程度は高く、識字率は世界で最も高いほどであったので、その後の日本は世界が驚くほど速い速度で西欧化に成功したのである。

この背景を正しく認識せず、天皇制こそが日本であるかのような錯覚は完全に歴史の誤認である。天皇制は、古くから現憲法の規定のように、基本的に象徴に過ぎないものであったのである。なのに万世一系の天皇制は尊いものであるから、日本人はそのもとで一つにならなければならないなど笑止千万である。このように問題の本質さえ正しく見れない人間たちが、どれだけ集まったとしても烏合の衆に過ぎないだけでなく、誤った歴史観から又しても戦争というものを始める事になりかねない。本当の意味の明治維新とは何だったのか、それすら理解できない人間が新しい国を作れるなどあり得ないだろう。石原慎太郎も橋下というエセ改革者も、少しは自らの認識の浅さを恥じ、本当に日本が必要な事は何か、恥を晒す前に、今一度よーく考えるべきである。

我が国が必要としている事は、正しい歴史認識に基づく日本というものの再発見である。明治以前に培われた、人間崇拝という国家神道ではない、本来の自然崇拝である原始神道、三国伝来の仏教の思想、そして江戸期の武士たちの基本となった儒教の思想などを正しく理解しなければならない。さらに西欧の思想をその根本的に理解するために、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などと共に、彼らの哲学史を正しく理解すべきである。現代と将来の地球に必要な思想を持ってこそ、はじめて日本人は世界中から尊敬される国民になれるのである。ただお金だけで世界と付き合うなどは愚の骨頂に過ぎない。精神を忘れた人間が尊敬されるわけがない。西欧至上主義からの脱却こそ、我々にいま求められている事である。 では我々は何を目指すのか?答えは仏教の思想にある。一人一人が神になるのだ。それこそが一神教というものの間違いを認識でき、我々が何たるものかを認識するものであると確信する。
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再び仏教の思想について

西欧のユダヤ教にみなもとを持つキリスト教やイスラム教は、唯一神による信仰である。キリスト教では、人間は神の決めた掟に違反した事から原罪というものを背負わされた存在とされる。その根本にある思想は、神という自分に対立する他という絶対の存在である。そこから西欧の自我の絶対化、自己の独立という感覚が出ていると思われる。自己に相対する神という絶対的な他者の存在、そして個人の絶対性を言いながら、自分はその絶対者に全てを委ねるという矛盾を認めない。絶対者が命じれば殺人も許容されるのである。

仏教はどうか。難しい理屈を省けば、自己と他人との区別を認めない。縁起というものによって、あらゆるものは関連の中にしか存在しえないとする。自己の存在は、はるかかなたの人類の発生から延々とつながった生命の連鎖の結果である。その生命は空気や水、動植物などの命によって支えられてきた。それらの全ては地球という存在の中にあり、地球の存在は太陽などの宇宙の存在の中で存在できたものである。個人とは絶対性は個にあるのではなく全体の中の一部の関係したものに過ぎない。それを無我といった。無我とは己が存在しないというニヒリズムではない。関連の中の一部であるから、個という独立したものが無という意味に過ぎない。仏教に絶対神は存在しない。おのれが仏という神になろうとする宗教である。他者に助けを求めるのではなく、自己の中に真理を追求する事で神を目指す。キリスト教などの一神教において、神はあるものであるが、仏教において神はなるものなのである。

それでは個人の幸せは何に求められるのであるのか?個を否定して何が人生であるのかと自問するだろう。慈悲という言葉にそれがある。慈とは他人に楽を与える事であり、悲とは他人から苦を無くす事を言う。その結果が個人の悦びになることで幸せを感じるのである。それに対して西欧の思想は正反対である。競争という戦いによって他人との競い合いにより幸せが獲得できるという。勝者にあらざれば何も獲得できない。幸せとは己の欲望の満足に過ぎない。しかし、待ってくれ、米欧では日本よりも貧者に対する寄付行為が多いではないか。これはいかなることなのかと。しかし、その根底にある真理とは、絶対神である神に対して、自分はこれだけ善きことをした。だから最後の審判の時に救われて永遠の神の国に召されられるという自利の思想があるのではないのか。あくまでも個人の救済がその裏に存在している。仏教とは違う心理である。仏教は決して他人の中に救いを求めない。不動明王という怒りの神すら、それは他人ではなく、自己の内面に対する怒りの神である。

過去の長い歴史の中で、西欧の進歩の歴史は、その中のたったの3~4百年程度の時間で地球のあり方や人間のあり方を劇的に変えてしまった。人間とそれ以外の物質という見方により自然を研究する事で科学技術を発達させ、その結果によって自然を人間のためにだけ利用する対象に変えた。確かに人間にとって物質的には極端に豊かな世界は実現できた。しかし、自然破壊や、原水爆や原発などの巨大で危険なものまで生まれた。人類はこれらのものにより、いつ滅亡するかも分からないのに、楽観的な考えだけが横行している。悲観的な見方をすれば、発展から取り残されるだけという物質的な欲望だけの世界に変わってしまった。

我々の世界から精神的な問題がどんどん消えている。技術的な理性ばかりが尊重され、過去には正反対であった叡智的理性がどんどん隅に追いやられようとしている。その結果が日本のような嘘が当たり前の社会に成り果てている。政治家は公約を平然と破り、それを知識人やマスコミが何も非難せず、あたかも正しい事であるかのような滅茶苦茶な事がおきている。世界は西欧の物欲至上主義に変わり、至る所で自然破壊が進んでいる。

再度、問おう。明治維新で、日本人が過去から持っていた自然崇拝の神道や仏教、強い倫理観のあった儒教などの全てを捨て、西欧の科学技術による富国強兵の思想で国を作り変えた事は正しかったのであろうか。我々が古くから持っていたこれらの思想を捨てたままで本当に良いのか。今一度我々は真剣に考えるべきである。中国や韓国などと領土問題で対立するだけで、そして米国という強大な軍事力を持つ国とだけつながることが正しいのか。我々は本当の意味の世界観を持つ必要はないのか。あるとすれば、その根拠とすべき思想は何に求めるのか。そのような背景抜きに、わが国が世界に対して言葉を発する意味は何もないだろう。ただ経済、経済、援助という言葉の裏にある金というものだけで世界と付き合って尊敬されてきたのか。あまりにも日本人は軽薄になり過ぎていないか。仏教の思想を忘れすぎていないか、反省すべきである。
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