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民主主義の形態とキリスト教

民主主義と一口でいっても、そこには異なる種類の民主主義が存在する。我々は、その違いをほとんど認識していない。もちろん、そのような教育すら受けていないので、他国との比較において正確な判断を妨げる。ここでは、ルソーの社会契約論に見られる欧州型と、米国という新大陸で発達した民主主義を見てみたい。

宗教的な背景を述べれば、キリスト教にはカトリックとプロテスタントの2種類がある。カトリックとは神との契約を教会を通じたものに求め、プロテスタンは神と個人の直接の契約形態のものをいう。このため、カトリックは教会を中心にした共同社会の形態が強く、プロテスタントは個人の独立の思想が強い。ルソーの社会契約論はカトリック型、米国の民主主義はプロテスタント型と分類する。

ルソーは個人の自由というものの原則は、特定の共同体における価値観の共有を原則に自由を見る。なぜなら、個人は同じ価値観の社会の中で初めて平等の利益が獲得できるので、自由という概念を持つからである。言い換えれば、共同体の構成員は、全員が個人とその権利を共同体に譲渡するのである。そして各人は誰にも服従せず、各人にだけ服従する。それを主権者と定義した。共同体は国家と呼ばれ、構成員は国民、主権に参加するものを市民、法律に服従するものとしては臣民と定義した。このように、社会との契約であるから社会契約論とルソーは述べたのである。これは明らかにカトリック的な教会を中心とする共同体的な発想だと見える。

これに対して米国の民主主義は異なる。そこにあるのは個というものの多元的な利益を極大化する思想である。分権の思想が強く、多数決よりも多元的な利益のほうに重きを置くものである。1775年、英国王ジョージ3世の臣民であった13州の米国の人々は、その圧政に対して立ち上がり、翌年にはその圧政を非難した独立宣言を行う。そして1781年に英国からの独立を勝ち取るのである。かれらはピューリタンと呼ばれる英国からのプロテスタントがほとんどであり、基本的に新天地を求める独立心の強い人々であった。国家形態は、当初は分権だけが強く、中央政府には何の権限もなく何も決定できなかった。この不具合を解消するために1787年にフィラデルフィアで新しい憲法が出来上がる。そこでは連合という州ではなく連邦という個人の権利から憲法を規定する。しかしながら連邦政府は州の協力がなければ何もできない。上院と下院という2院制議会は日本と同じく同等の権力を保持する。ただし立法権は日本や他の多くの国の議院内閣制によるものではなく、議会にしか認めない。しかし行政の代表者である大統領には拒否権を与えた。その他、種々の制度があるが、基本的には権限の集中ではなく分散の中に多元的価値の尊重が基本となっている。

いずれにしろ、これらの違いを我々はもっと知るべきなのである。共同体を大事にするのか、個人の権利を最重要にするのか、何を持って価値観を共有すべきかの議論がなさすぎるのである。最高裁の選挙に対する「違憲状態にある」などという曖昧でいい加減な決定がある国であってはならない。その前提は何なのかをもっと議論すべきである。戦後に民主主義という制度を与えられた日本、すでに67年が経過したが、国民はそれをどこまで真剣に考えてきたのか。我々は真剣に反省すべきである。
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