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世界を支配する思想と物質的欲望満足の関係

近代の政治思想の前提を作り上げてきたものは、科学技術による自然を数値化して利用することで得られている膨大な生産力である。17世紀のデカルトの二元論による人間とそれ以外の全てを物質化してみる思想で、自然は生命を持たない単なる物質とされ、それを研究して人間のために利用することで、西欧文明は巨大な経済力と軍事力を獲得し、世界の他の文明を支配した。他の文明は西欧化するか否かの二者択一を求められ、それをいち早く選択した明治維新の日本は成功し、逆に、過去からの偉大な文明の存在ゆえに変化できなかった中国などは大きく遅れた。

物質文明の拡大は、西欧思想の理性による支配というものから、衣食住や権力、性欲などの欲望から人間を見るものに変化する。衣食住という唯物主義のマルクス思想、権力欲というニーチェ、性欲というものが人間を支配するというフロイトの心理学が人間の存在の根源を変えるものとなる。政治思想でおきたものも生産性の拡大で変化が起きる。人間が自然を見る観点は、自然科学というものになり、世界の一部を構成するものではなく、人間によって利用される対象に変化してしまう。

このような中で、最も顕著に近代の政治思想と、生産性の関係を顕著に違いを示す例はリバイアサンで有名なトーマス・ホッブスと、ジョン・ロックの違いで説明ができる。その原理は、現在のイスラム諸国がなぜ発展できずに闘争を繰り返すのかも説明できるものになるだろう。

ホッブスの思想は、人間を共同体の一員ではなく生物としての個人と見る。それを自然状態の中にいる個人とみなすが、生産性に一定の限度、すなわち富の総量がきまっている世界の中において、人間は生存のために欲求を制御できない存在として捉える。その結果、人間を放置すれば、限られた富の争奪の争いというアナーキーな状況になるという結果になった。万人は、万人に対する狼、という言葉の意味がこれである。従ってそれを防ぐためには、強い権力による人間の統制が必要だというリバイアサンの理論となった。一定の生産性の社会の中においては、各人が倹約という抑制をなくせば社会は破たんする。それに対して権力者は、その分け前を前提にして社会を統制できるとしたのである。

これに対してロックの場合、富の総量は決まっていない。それは生産性の拡大でいくらでも拡大できるとする。ホッブスより約100年後に活躍した彼の時代背景は、まさに英国の産業革命前夜の世界に存在していたのである。生産性を拡大できるというのは、人間が動物と違い、予測する能力によって穀物などに最適な労働力を提供することで富を大きくできるとした。ロックと違い、労働が富を再生産するという考えになり、人間をラショナル・アンド・インダストリアル、すなわち理性的かつ勤勉な存在とした。西欧の過去の世界では、労働は奴隷のするものとした考えを変えたのである。この考えがのちのイギリスの経済学を作る思想となった。そして人間が科学技術により、自然からの搾取により強大な生産力を持つという基本的な思想となったのである。

以上の違いでイスラム諸国を見れば、厳しい自然の中に存在するイスラムの世界では、富の総量を拡大することは依然として厳しく、石油などの自然資源がない国では、ホッブス的な思想がいまだに続き、西欧的な個人の解放は、権力者から見れば、国家そのものがアナーキーになるという認識がいまだにあるからである。それを一神教という思想の存在で、さらに対立をあおる結果ができるものとなってしまっているのだ。この解決を日本人は歴史という流れと、日本仏教の八百万の神の考えで変えさせるべきである。我々の中には、明治維新というものと、過去から続く自然の中にも神を見る平和の思想が存在する。それをもっと自信を持って世界に示すべきである。
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