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まもなく終戦記念日が来る

終戦記念日という言葉自体に違和感を覚える。それは紛れもなく敗戦記念日なのである。その事実を誤魔化して美化しようという意図が官僚思考の最たるものであろう。世界的にはポツダム宣言を受託して日本が調印した9月2日が終戦記念日としているが、わが国は天皇が敗戦を認めた玉音放送をした8月15日を終戦記念日としている。ここにも我々の知らないうちに何が基準により記念日となったかが見え隠れする。太平洋戦争とは何であったのかと言う事はすでに何回も投稿した。それを板ちがいとかいう、いわれのない非難も何度も見た。今回はその前提となった「天皇制」というタブーに挑戦しようと思う。

戦後言われている天皇制という言葉は、多分に西欧の国家君主制を真似た偏った見解である。わが国の天皇制は、そのようなものではなく、はるか昔に起源をもつ。なぜ千年以上も続いたのかという検証が必要であるが、ここは上山春平と梅原猛という二人の哲学者による冷静な分析が正しいものと考える。まず、中国の皇帝と日本の天皇というものの違いは何なのかという問題に対しての明快な答えがここにある。中国の皇帝というものの前提には、儒教思想に基づく天の神に対する責任の有無のある存在として、その結果による交代の必然性があるという指摘である。革命という言葉は、天が正しい事を行わない皇帝に対して革(あらたに)する天命を下して交代させるというものである。すなわち皇帝は神よりは下の存在なのであるが、日本の天皇というものは理論的には天孫降臨神話によって、神が下って天皇になったために交代という観念がないうえに、天皇は全ての罪から免責された存在になっているのである。これが現代まで続く万世一系の天皇という 根拠になっている政治的な背景である。

さらに深く政治的な考察がなされると、天孫降臨というのは、我が国にもとから存在した縄文文化を起源とする原日本人に対する、中国を起源とした水稲栽培をもたらした弥生人という渡来人による征服の正当化というものを見なければならない。大和地方に存在した縄文文化の人々を征服する事は、その背景にあった全ての神々を出雲大社に閉じ込め、自らの神を伊勢神宮に収める事で正当化したのが古事記と日本書紀の天孫降臨神話の由来である。天皇制は継続こそが基本である。その存在は1300年前に作られた大宝律令という刑罰を持った初めての法律によって確立されたのである。その目的は、藤原氏による権力掌握のため、天皇はその権力の象徴として永きにわたり継続させ、陰で藤原氏という官僚制度が政治を操るために作り上げられたとみる考えが正しいものである。そのため実際の政治は官僚が行い、天皇は象徴的な存在として続くことができたのである。例外といえるものは、後醍醐天皇の中国の皇帝化を目指して失敗した建武の新政と、明治維新で作られた国家神道による天皇の生きながらの神格化である。わが国では生きたまま神になった例は過去に存在しない。全て亡くなったものだけが神となる事が出来たのである。ここに国家神道による天皇の現人神というものに無理を見るのであるが、藤原氏による思想そのものが現代まで連綿と続いている事に驚きを感じざるを得ない。 大宝律令は中国の律令制をもとにしているが、中国の制度は皇帝による独裁であるが、藤原不比等が作り上げたものは間に「太政官」という制度を設けた。ここが実権を持つものとして機能させたのである。そして驚くことに初期の明治政府はその別称を太政官政府と呼んだのである。

終戦記念日というものを考えるとき、われらは日本という国家の成り立ちをはるか昔から見直さないと大きな間違いを犯す。ましてや神国日本などという間違った思想のままに靖国問題の根源を何も考えない政治家など論外である。過去からの歴史を正しく認識する事は、明治以来わが国が、西欧から移入した「科学技術」というものに従って正確に認識する事と矛盾しないのに、こと天皇制とか太平洋戦争の問題に対しては、この原則が無視されるという異常性が未だに存在すること自体に驚かされる。国民は政府や官僚やマスコミ、御用学者たちによる意図的な情報操作に踊らされてはならない。自分たちが考え、調べて、何が正しいものかを自分たちで判断する事こそが、敗戦によって得る事が出来た、民主主義というものである事を自覚するべきである。天皇制というものをタブー視してはならない、その何たるかを正確に把握し、国民一人一人がどうあるべきかを考えるべきである。未だに無謬性などというバカげた行動をとっているわが国の千年以上にもなる公務員制度は、今こそ徹底的に変えなければこの国に未来はない。官僚上がりの国民の税金によって生計を得ていた者たちが、偉そうにマスコミを通じて国民にものを言っている不遜な態度は何なのか、腹が立つのは私だけなのであろうか。無数の国民の犠牲によって得られた民主制度を確立しなければ、一体、戦争で亡くなった方々は何のために死んだのか、その責任をわれら自身に問う事こそが終戦記念日なのではないのだろうか。国を国民のものに変える事、そして平和という思想を確立する事、それは我らの子供たちと世界に対する責任でもあるのではないのか。。

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