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キリスト教原理主義とは何か

キリスト教原理主義・ ・ ・ イスラム原理主義と同じ Fundamentalism という英語の表現である。どちらも一神教による他の信仰や神の排斥がある。自分たちだけが正しいとする思い上がった思想の恐ろしさがここにある。一神教というものが多神教などより優れた宗教という考えには何の根拠もないのである。

キリスト教はユダヤ教としての旧約聖書と、人類の原罪を背負って磔刑に処せられたキリストを崇める新約聖書のキリスト教に分かれるが、基本的にキリストはユダヤ教の神、エホバの子である。その原型のユダヤ教は、モーゼの律法としての十戒の第一に他の神を信じてはならないと規定する。汝、殺すなかれという規定は6番目のもので、その意味するものは万人を殺してはならないのではなく、ユダヤの同胞を殺してはならないものだけとして理解すべきものである。なぜならば神との契約を破ったものには、エホバの怒りの死が常に与えられるからである。この考えはキリスト教でも同じである。イエスキリストは人間の罪を背負って磔刑に処せられた。これこそ万人に対する神の愛でなくて何なのであろうか。しかしながらキリストは死から復活したのちに神となって天に上った。そしていつの日か地上に降臨して神の国を実現するのである。その時、最後の審判がなされ、キリストを信じるものには不死が与えられて永遠の幸福が得られる。一方で信じないものには、容赦のない死というものがゲヘナの火によってもたらされるのである。これはどういう事なのであろうか。万人の罪の贖罪という愛のために死んだはずのキリストが、神となって降臨した時には怒りの神となって信じないものを殺すというのである。そこにあるものはキリストを磔刑にしたものへの復讐という概念が隠されているのである。同胞の間では愛を語るが、復讐は神が行ってくれるわけである。西欧思想の根底にあるキリスト教の限界とはこの事だと思われる。

それに対して仏教は全く異なる。仏教には復讐の概念は存在しない。小乗仏教に見る自己の悟りを求めて、自分が救われるという自利の思想と、大乗仏教に見る人間だけでなく自然や動植物の全てに同じ生命を見て、自分だけでなく他のものすべてを救うという利他の思想はキリスト教とは正反対に見える。多様性を認める仏教や、古来からの万物の全てに神を見る本来の神道は八百万の神を持ち、そこには宗教間の争いは存在しない。一神教だけが優れた思想という西欧の思い上がった考えは誤っている。この事実を直視しない限り世界は変われないだろう。

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