スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

釈迦の思想に見る仏教の基本

釈迦という存在が仏教の源である。しかしながら釈迦そのものは経典など何も残していない。実践こそが大事で言語表現は無用(不立文字・ふりゅうもんじ)だった。経典と呼ばれるものの殆どは、彼の死後に釈迦の名で書かれた後の人々により創作されたものである。しかし彼の思想の根源を現わすとされるものは存在している。それは四諦説と呼ばれるものである。

四諦とは「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」という4つの真理という意味である。「苦諦」とは何か、我々が日常よく使う四苦八苦という言葉そのものである。四苦とは生、老、病、死、という苦を指し、各々の意味は、生まれた苦しみ、すなわち生まれた事によりいずれ死ぬことを自覚した苦しみ。老いの苦しみ、病の苦しみ、そして誰でも必ず死ぬという苦しみを言う。八苦とは、これらに加えた四つの苦しみである「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」を言う。愛別離苦とは、愛する人や子どもと別れる苦しみ、怨憎会苦とは、どこに行っても存在する自分の思いを妨げる他人の存在、求不得苦とは、正に物質的な満たされない欲望そのものである。そして五蘊盛苦、それは人間の体を構成する五蘊と呼ばれるものが活動する事で生ずる満たされない欲望が生ずることから来る苦しみ、例えばアルコール中毒などを指している。このような欲望から来る苦の深い分析はどうであろうか。実に人間の闇というものを深く見つめている。
「集諦」とは原因の分析である。苦悩の原因、それは欲望であると釈迦は述べた。欲望は3つある。何かを所有したいと願う欲愛、存在を願う有愛、存在を否定したいと願う自殺願望のような無有愛である。欲望を捨てよ、しかし無にとらわれるなという深い洞察。ここにも釈迦の思想の深さを見る事が出来る。
「滅諦」とは、この欲望を滅ぼすことである。欲望に曇らされた心を無明という。無明とは無知とは違う。それは分かっていながら止められない人間の業の深さを言う。無明を滅ぼせ、これが滅諦の意味するところである。
「道諦」とは欲望を滅ぼす方法を言う。これが仏教生活の基本と言われる戒定恵と呼ばれる知恵と戒律と瞑想のための八正道というものである。それは知恵のための正見(正しい見解)、正思惟(正しい思考)、正語(正しい言葉)、戒律のための正行(正しい行い)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、瞑想のための正念(正しい思慮)、正定(正しい瞑想)である。

以上が釈迦の根本理念と呼ばれている四諦という考えである。欲望を否定して悟りに生きるという釈迦の思想、それだけで人間は救われるのであろうか。確かに個人は救われるかもしれない。しかし食べるものも満たされない貧しい者たちなどはこのような考えだけで救われるのであろうか。そのためには西欧思想による物質文明の追及が必要なのではないのか。その考えも正しいのだろう。しかし釈迦の思想にも西欧思想のどちらにも偏ったものがいけないのではないのか。今の世界に求められているもの、それはどちらにも偏らない、両者を融合した新しい思想が必要なのだと考えるべき時なのではないのか。我々はもっと過去に存在した仏教の深遠なる思想をもっと考えるべきである。

Comment


        
月齢・日付・時刻
この記事に対し意見を呟く
訪問者カウンター
全記事表示リンク
最新トラックバック
検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。