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西欧に存在する正義の思想のみなもと、終戦記念日に向けて

正義、聞きなれた言葉である。しかし過去のわが国ではこのような定義の言葉は存在したのであろうか。この言葉を定義するためには、何をもって正しいものかが明らかにされなくてはならない。西欧思想の根本にあるのはキリスト教である。キリストは万人の原罪を背負って磔刑によって殺された。キリスト教会に存在する無数の十字架上のキリスト像ほど無残なものは無い。そこに人はキリストの人類に対する愛を見るのであろう。しかし同時に殺されたという事実も見るのである。殺されたものに対する復讐、それこそが正義という言葉のみなもとである。死んで3日後に復活したキリストは天に昇る。そしていつの日か地上に再臨して神の国を作る。その時に最後の審判を行い、キリストを信じるものだけが救われ、それ以外のものは殺されるのである。正義が実行されるという訳である。

この考えで動く世界では、正義の概念の違いで殺し合いは永遠に無くならないだろう。自分と違う考えや宗教、文化などの無数に存在する他とは異なるものの存在。その中で自己主張による戦いがあれば収拾は不可能である。他人を思いやる心の存在が優先しない世界以外に戦争はなくならない。正義とは自己の基準に基づく復讐に過ぎない。他の基準によるものから見れば、それは正義でも何でもなく、単なる理不尽な行為になるだけであろう。西欧の基準で考える正義は普遍的なものなのであろうか、それを問わなければならない。結局、その解決は力というものになる事は歴史が証明している。戦いに勝った者が常に正義となってきたのは明らかである。原爆により無数の非戦闘員が殺されても、勝利した米国は誰も裁かれることもないどころか、戦いの終了のためという理屈によりその非人道的行為を正当化して謝罪さえしない。これがもし敗戦国による行為であったならどうなのであろうか、正に今、世界が核兵器の対応で同じことを行おうとしている欺瞞を見ればわかる。しかも戦勝国は常に何の賠償責任も負わないのである。

西欧による闘争の哲学は完全に行き詰まりを見せている。人間だけを最も優れた存在としてとらえる思想や、科学技術による物質的な進歩史観には最終的な目的地がない迷路のようなものになっている。何のための進歩であるのか、その見直しが世界に求められているのである。正義というものだけで全てを解決するためには西欧の基準によらない普遍的な基準が必要のように、人類の繁栄とは何なのかをもっと真剣に考えなければならない。世界は西欧だけでは動かなくなっている。日本人も明治以来続けられた西欧至上主義から脱却しない限り、世界に対して何の貢献もできない国になるだけである。

人間が最も優れた存在という傲慢さを捨てる必要がある。神というものの存在を忘れて現代人は余りにも謙虚な心を失ってしまっている。他人より少しでも前へ、負けないためには理屈抜きで何でもしなければならないという直線的な思考、等々の問題の前に横たわる人間としてあるべき姿の追及が忘れ去られている。その原因は人間が神より上になってしまったからに他ならない。神を捨てた世界に倫理というものは存在しなくなる。それでより良い世界を作れるのだろうか。我々はこの問いに真剣に向き合うべきである。

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