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日本人の根底にある精神構造とは何だったのか

仏教の思想の見直しを訴えてきたが、やはり仏教は多数の宗派があり理解する事は難しい。釈迦の悟りを求めるという小乗仏教と、他人の救済を含めた大乗仏教という2つの大きな違いだけではなく、大乗仏教の中にある多数の宗派の違いが我々を混乱させる。しかし、過去の日本人は、間違いなく長きにわたり仏教の思想を受け入れてきたのも事実である。そのエッセンスによって理解する事にしたい。

インドから中国を経て、日本に仏教が伝えられたのは552年である。すでに中国においては大乗仏教が主流であったため、日本に伝わった仏教はこの時もそれ以降も大乗仏教であった。それから200年後に大仏ができて仏教は揺るぎのない国の宗教となった。奈良時代は中国の隋の時代の仏教が主体のものであったけれど、平安以降、遣唐使によった天台宗や真言宗になり、日本古来の神道の八百万の神という自然崇拝が混合した神仏混合の形が、わが国特有の仏教思想の根本を形成していった。基本的には宇宙的な生命を仏とする考えが根付いたが、大乗仏教の基本となる自利・利他の思想は、戒律という僧侶の厳しい規定よりも仏教の本質として受け入れられてきた。自己の悟りより全ての人々を救うという考えは、菩薩信仰となって広く庶民を含めて仏教の基本となっていったのである。以降、この考えが明治維新までの日本人のバックボーンを形成する思考となっていく。自分を犠牲にしても他人を救済するという思想は連綿と続く日本人の美徳になったのである。それは明治維新を経て、西欧至上主義の中央集権国家になった後にも残ったのである。逆に言えば、国家神道という天皇を神とした忠君愛国という教育に完全に利用される結果ともなったのである。

このように日本人の根底となった精神構造は、仏教移入以前に存在した原始神道というものに見られる自然崇拝や、先祖供養とか死んでも又、生まれ変わるという考えをもとに、奈良時代以降の大乗仏教による他人を救うという菩薩信仰が主体となったものと混交してきたのである。平安時代以降の天台、真言から鎌倉仏教に至る浄土宗、禅、日蓮宗に至る仏教は、最澄による天台宗以外は、圧倒的に利他より自利という考えの方が強い。ここに日本人独特の功利主義という概念が見て取れる。外国からの思想や文化を移入して発展させる我々日本人の特徴は、昔から変わっていないのである。しかしながら、戦後に至るまでは、日本人の心の中では、明らかに自己犠牲という仏教の利他の思想を上位に置いてきたのである。

明治維新以来、西欧思想とその科学技術の移入という目的と、中央集権のための国家神道の創作という新しい思想のために、仏教は廃仏毀釈という制度で徹底的に排除された。そのために教育というものの中から過去の本来の意味での自利・利他の思想は完全に排除されて現在に至っている。これが現在のこの国の教育から、心の教育という最も大切なものが失われた原因である。過去から続いていた利他の思想は、戦後66年を経て、どんどん希薄なものになりつつある。教育の程度が高いと言われたものが多数関わったオウム真理教の事件は、わが国の教育の欠陥を端的に示している。このままでは、わが国は間違いなく米国のような物質的な欲望の追求だけの人間中心のガサガサしただけの人間関係しかない社会になっていくだけである。過去の優れた心の思想を見直さないでこの国に未来はあるのだろうか。それを我々も若い世代も、もっと考える事が求められている。仏教を単なる時代遅れのものと考える短絡的な思考では何も解決にならない。西欧至上主義はすでに破たんしているのだ。

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