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大乗仏教の思想の根源とは何か

インドで発生し中国、百済を経て日本に伝えられた仏教は、その時点で大乗仏教という釈迦の教えによる自分の悟りだけを追求する小乗仏教とは大きく異なったものであった。その根源にある思想は龍樹による空の思想である。では、その空の思想はどのようにして作られてきたのであろうか。

空海による密教の曼荼羅に示された金剛界の部分について5つの知恵を現わすものの解説をした。それらのもとになっているものは唯識という心の分析から来る知恵である。何度も書いたように、西欧における無意識の発見は19世紀のフロイトに始まる新しいものであるが、仏教の唯識という心の分析では無意識という末那識(まなしき)や、無意識を超える根源的な意識としての阿頼耶識(あらやしき}というものの概念は2000年くらい前にすでに存在している。唯識では心の構造を8つに分け8識と呼ぶ。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、という5感に相当するものと、それを統括する意識、無意識に相当する末那識、および宇宙の生命的な感覚である阿頼耶識である。始めの6つを意識の範疇、次を無意識、最後が心の一番深い層にある生命情報的なものとしての3つの範疇に分類されている。

この唯識では、人間や物の存在という認識を仮想のものと考える。自分がいて、他人がいて、物がある、と認識する事が仮想の事とは俄かには信じられないだろう。それらは触れれば感じられるし目でも確認ができるではないか。なぜこの認識自体を仮想のものと言い切るのであろうか。唯識とは言葉通りで、ただ(唯)、心(識)しだいで世界がどのように見えるかが決まる、という事を意味している。すなわち自分を中心に物を見ると、その利害関係だけに従って、関係するものとしないものとに分けたりする事態が生ずる。しかしながら阿頼耶識というものによるDNA的に引き継がれた生命の本質的なものの意識とは、全てのものは不可分につながったものという意識なのである。自分の存在は父母や祖先なくして存在しえない。それらの全ては動植物から自然までの全てが関わって、ものを食べたり利用したりしながら存在している。従って自分という存在を大宇宙の命の一部という認識で見ないという事は、真実の世界ではない虚構の世界にいることと同じことを意味する。さらにいえば、生命は無数に存在し、各々の生命はそれぞれが複雑に絡み合っている。従って、それ自体で独立して存在する自己というものを否定する。そういう意味で自己の認識を仮想のものと結論付けているのである。これは、AであるからBであると考える二元的な考えの否定という禅の思想の もとになっているものである。

我々は自分だけを考えて、世界は自分の周りを動くものと誤解している。しかし、本当は世界の一部として自分があるに過ぎない。自分の存在は、大宇宙の無数に存在する生命の関連の中の、ほんの一部であるとい事実を意識しなければならない。世界は常に動き、複雑に絡まりあい一時も同じ状態でいる事はない。それが無常という現実である。自分の存在は宇宙の一部としてあるという有、または全体として見れば存在しないという無、有でもあり無でもあるし有でもない無でもない。したがって人間を有でもない無でもないとする空の思想が生まれたのであろう。小乗仏教の欲望の否定だけに偏るな、かといって欲望の肯定に偏ってもいけない。生命の本質を正しく理解して、自分というものを大宇宙の生命の一部として認めて生きよ。それが空という大乗仏教の思想の本質なのであろう。

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