スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

唯識から見える仏教の思想

唯識では心の構造を8つに分け8識と呼ぶ。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、という5感に相当するものと、それを統括する意識、無意識に相当する末那識、および宇宙の生命的な感覚である阿頼耶識である。始めの6つを意識の範疇、次を無意識、最後が心の一番深い層にある生命情報的なものとしての3つの範疇に分類されている。これらの分析から仏教の色々な思想の根源が見えるのは興味深い。

阿頼耶識はDNA的な生命情報のようなもので、蛇などの爬虫類が生まれつき嫌いとか、始めてみる景色の中に何か懐かしさを感ずる説明のつかない意識である。それは五感や無意識を超えた感覚である。これに対して五感というものは「別々の対象に対応するもの」とされている。すなわち対象を全体から見るのではなく個別に見る事である。我々はそれが当たり前のように思っているが、唯識ではそれを妄想、または仮想のものであるとする。自分だけの側から見た世界は存在しえない、全ては関連して存在するものだから意識による認識は心の在り方で変わるものとしている。阿頼耶識で見る対象は、個人は大宇宙の生命の一部、大宇宙そのものという華厳経で言う一即多、多即一の世界、天台智での一念三千の世界であろう。個人の中に宇宙の生命という膨大なものがあり、宇宙の生命の中の個人という考えである。

ここから意識というものを見る仏教は、善に対抗するものを悪と規定しない。善と悪を区別すれば、それ自体が対立する世界を形成する事になる。そのために善と煩悩という分け方をする。煩悩とは己の中の問題であり、他人などの別のものが悪いという考えにしない。全ては一なる世界の問題に帰結する事になる。逆に言えば「悟り」というものも実体としてとらえない。煩悩の中に悟りがあり、悟りは煩悩に中にあるものとしてとらえるのである。悟りが煩悩から区別されて存在するのであれば、生まれつき煩悩がない、悟りを持った人が生ずるという矛盾が生じる。それは仏教の本質を破壊するものになる。唯識における心とは個人から見た確定的なものは存在しない、全ては変化するものの中にある。一瞬の中に何かを見ても次の瞬間に全ては変わる。けれどそれを認めよう、その中にあるがままの中に生きていくことこそが大事である、とするのが大乗仏教の根本的な空の考えであると思われる。

最後に無意識としての末那識を考察すると、それは西欧で考えられた深層心理に相当するものである。人間のさまざまな問題の根源をこの末那識の問題と唯識は捉える。自己は本来宇宙の生命の一部に過ぎないのに、逆に自分が存在するから意識があると間違える。そこから自我という末那識が生まれて妄想が始まるのである。生きがいとか自尊心などは末那識が生む妄想に過ぎないとする考えは理解が難しい。西欧の自己という理性主義や人間主義の観点とは真逆の考えである。そして唯識では、それこそが何かに対する執着のみなもとであると分析する。実体的な自我への執着、それを捨てよ、その深層意識が全ての無明の根源であると唯識は分析するのである。それを捨てて宇宙の生命の中の一部と思う事が大事だという考えは、天台本覚がいうところの「山川草木悉皆成仏」という日本の自然との融合を見る思想になっていったのであろう。これらの全ての心の分析が2000年以上も前から存在する事に驚かされる。そして、これらの思想がいかに優れているのか、我々は本当に仏教の思想を理解する必要をここにも見出すのである。

Comment


        
月齢・日付・時刻
この記事に対し意見を呟く
訪問者カウンター
全記事表示リンク
最新トラックバック
検索フォーム
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。