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道徳を何に求めるのか、あまりにもなさすぎる議論

現代人は仏教を「思想」として考える事をしない。単なる葬式の儀式と見るものが殆どである。その原因は、明治政府が全体主義国家を形成するのための思想統一の必要性から、国家神道という新造の宗教で国民を統一するために、国民の道徳の基本を仏教ではなく新しい天皇という神に変えた結果である。戦後は国家神道による天皇の神格化は否定されたが、道徳の基本は何に求めるかは何も議論されず、結果として仏教の思想は忘れられたまま今日に至っている。

この国には道徳の基準がどこに求められるべきかという議論が66年も放置されたままになっているのである。小生の意見は、それを仏教に求めよというのではない。仏教の思想も知らずに道徳の基本を何に求めるのかという問いかけである。過去の天皇教という国家神道は明らかに西欧の19世紀的な国家覇権主義のみなもとになった事は否めず、その否定は正しくとも、新しい基準を何に求めるかという議論があまりにもなさすぎるのである。民主主義が道徳の規準なることはありえないし、マルクス主義がなることもあり得ない。わが国にはわが国の存在する、古来からの優れた思想が多数ある。それは仏教でもあるし、国家神道ではない本当の意味の神道でもあるし、江戸時代の武士階級の学んだ儒教などの中国の思想でもあるかも知れない。それらを無視して、明治以来の西欧至上主義のままに、道徳の基準までも西欧の思想にするのか、それて良いのかと聞きたいのである。

戦後から続いていたのは敗戦からの復興、国民の豊かさへの努力であった。一旦は成功したが、それが挫折した後は一向に良い方向にならないまま今日に至っている。その間に社会は大きく変わり、経済的な成功こそが人間としての目標の一番大事なもののように取り扱われたままになっている。豊かさとは物質的、社会的名声というものだけに偏った社会になったのである。一方、東日本大震災の被災者たちの素晴らしい対応は世界を驚かせ、我々日本人の中に依然として過去の美徳が無意識的に残されているという事実もある。それが美徳であったのか、それともムラ社会的な違う事をすれば村八分になるという恐怖感からきたものかは、被災者たちの今後の行動が全てを決めるだろう。特に原発事故後の関係自治体の対応は、お世辞にも褒められたものはなく、農業、畜産業、漁業という一次産業従事者たちの対応にも大きな疑問を提示せざるを得ないものがある。他人を思いやる心はどこに消えてしまったのか、自分で判断せず、全ては政府などの責任にまかせるという無責任さは大きな問題である。

これらの諸問題の根源には、人間としての基本的な心の問題を抜きにして、経済的な問題に偏った考えのままで今日まで来たこの国全体の責任がある。理念なき政治のみなもとは我々全員の責任でもある。何をやっても、経済が上向きにならない限り非難されるだけの政治と政治家たち。一方では責任も問われず、責任を負おうともしないおおやけの仕事を担う公務員という存在。そして自分たちで責任を負わずに、選挙にも行かずに全てを政治家に丸投げするだけの大多数の国民。我が国はどこに向かおうとしているのか、国民は何を求めるのか、全ての答えは我々の基準を何に求めるか、そしてどのように行動するかにある。我々は余りにも過去の歴史の正しい認識を無視しすぎてきたのではないのだろうか。歴史というものを現象だけで見ず、そのもとになるものの中に答えを求めずに何に求めようというのか。個人個人が良く考える必要があるだろう。

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