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唯識こそが大乗仏教の根本思想だと考えた

仏教の思想を歴史や宗派の問題、日本に伝わった経緯などから概説してきた。その中でも空の思想や唯識についても簡単に説明したつもりであった。にわか勉強で偉そうに書いてきた事は恥ずかしいけれど、仏教というものを思想として見るためのいくばくかの道筋は提示できたような自己満足はあった。しかし、それの中に間違いがあっては何の意味もなさない怖さもある。その意味では、自分独自ではない他人の意見の中で正しいと思う主張に沿って紹介したに過ぎない事も事実である。エッセンスを何に見るかで思想の把握は異なるものになるが、同じ結論を得るために異なる道をたどることはいくらでもある。だから一見違う事を言っているようでも、同じ答えのためのものであれば全ては同じだと言える。その意味では日蓮宗という一神教に近いものでも、利他の理念という大原則で見れば、わが国の全ての宗派の仏教の思想は全て同じであろう。そしてその源は何なのかを考えた挙句、その答えに唯識という心の学問ではないかと結論した。

それでは唯識というものを再度つたない考えで解説してみたい。その根本にある唯識という言葉の通り、ただ(唯)、こころ(識)だけが全てを認識するという解説がなされているが、そもそも「心」とはどのように唯識では定義しているのであろうか。それは余りにも漠然としており、言ってみれば体に対する魂とか霊とかいうものにも似ているように判然としない。要するに身体のように実体としては存在しないものであるが、我々が生きている中で、自らが考るという行為のもとになる存在であろう。仏教では山川草木悉皆成仏という言葉にあるように、人間以外の動植物にも山や川という自然にも人間と同じ仏を見るのであるから、これらの全てにも心は存在する。これらを物質とみなす西欧思想と根本的に違う思想がここに存在する。ラフカディオハーンは、この心というものが西欧には存在しないものとして驚いて「こころ」という表題で本を出版し日本を西洋に紹介した。その意味では唯識で言う心とは西欧の心理学とは異なるものである。唯識とはインドで紀元3世紀ごろにできた瑜伽行派というヨガのもとの思想にみなもとがある。その思想が中国を経て日本に法相宗として仏教と共に伝来したものである。

唯識では心の構造を8つに分け8識と呼ぶ。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、という5官に相当するものと、それを統括する意識、これらの6つが感覚に関連するものである。末那識は西欧の心理学でいう無意識に相当する。阿頼耶識は宇宙の生命的な連鎖の感覚である。まず感覚に相当する6つについて言えば、5官の部分は、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる、という感覚そのものであり、意識とはそれらを統括して分別といって、美味しいとか不味いと見分けることをすることである。唯識とは、ただ(唯)こころ(識)だけしかない、と意味するもので、自分が見たり聞いたりするものには実体がない仮相と解説されているが、それが唯識を難解にしているみなもとであろう。この解釈は適切な説明がないと誤解のもとになる。実態は明らかにあるはずである。その証拠に人は水を飲んだり食べ物を食べて成長したり生命を維持している。その水や食べ物に実体がないという解釈は無理がある。それらは目に見えるし、触れれば感じる、飲んだり食べたりすれば匂いや味もある。現実にそれによって自分も大きくなったり、太ったりするのに、全てが存在しない幻のものという解説に無理がありすぎる。

その答えを求めるためには、自分を含めたすべての存在は、個として独立してはあり得ないという考えから導き出されるものとするべきであろう。自分の存在は、父母、祖先という過去から連綿と続く生命の連鎖と、それらを取り巻いている水や空気、山や川という自然、動物や植物などの食物などの、あらゆるものが関連した中でなければ存在しえないものである。その意味で個人の存在から見たりするものは、宇宙に存在する生命の連鎖の中の一部の中の一瞬のものであって確定したものではない。次の瞬間には全てが変化するものであるから実体はないと言われたのだと解釈する。全てはつながっているのだから一は多、多は一という華厳の思想で言う「一即多、多即一」なのである。本来、その広い世界の中で有する感覚であるべきなのに、逆に自分という感覚だけで世界を作り出している事を「実体なきもの」と述べているのである。その意味では大乗仏教の基本思想である「空」の思想もこれで説明がつくだろう。自分を主体にして見るものを客体化して別のものとして見るな、個別に存在のものは無い、全ては関連したもので自分と同じ存在に過ぎない。追加的に言えば、個人が各々、別々に一つの宇宙を持っている。だから個人の心によってそれが認識するものはすべて異なる。自分の客観的な認識はその意味で仮相なのである。これが自分流に解釈する意識までの6識の意味である。

第7識の末那識とは西欧心理学でいう深層心理に相当するものである。唯識ではこれを自己に執着する自愛、または我執という自分に対する執着心から生じるものと捉える。いわゆる煩悩と呼ばれるもので、自分だけの利益のために何かに執着して起きる心の動きをいう。しかし生きていくための欲望の全てを否定はしていない。善でもない悪でもないものとして末那識を位置づけているところに唯識の深い知恵を見る。

第8識の阿頼耶識こそが心の根源とされるものである。過去から連綿とつながるDNA的な生命の記憶から出る意識、さらには他人を恨んだり、泣いたり笑ったりする過去の全ての心の動きを蓄える場所となっているもの、寝ていても動き続ける心臓などの生命をつかさどる根源的なもの、などである。心の全ての動きが蓄えられるので、過去に行ったすべての行為が種子として貯えられ、何らかの条件のもとで再度、意識の領域に現れる。良い行いも悪い行いも、過去にさかのぼったDNA的な生命のつながりの意識などの全てが阿頼耶識に存在するのである。親もこの景色を見たのではないのかと感じる心や、魔がさすという自分でも信じられない行為に及ぶなどの根源となっているものである。

このような心の深い分析から仏教は存在している。キリスト教などの一神教では全てを神に委ねる事から始める。信じる事の強制である。仏教に強制はない。あくまでの自己を見つめるのである。西欧の思想より人間というものを深く見つめているのが分かる。自分だけという考えではなく、全てが平等という融和の思想、さらに悪というものを対立するものの中に見ない。全てが含まれる世界であるから他人に悪を見ず、自己の中に煩悩として見るという思想は完全に西欧の宗教と対立する概念である。ここから仏教でいう慈悲というものの考え方が分かるし、その根本思想である利他というものが理解できるであろう。以上によって少しでも仏教の根本的な考えの助けになれば幸いである。つたない解釈であるので、間違いがあればぜひ教えていただければ幸いです。

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