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再び空について・ ・ ・原点から考える

大乗仏教の根底となる空の思想はすでに述べた。しかしそれは欲望の否定という観点からの見方であり、般若心教というものから見た根本的なものとは視点が異なったものであった。そこで本来の空の思想とは何かを再度考察したい。

人間は五蘊と呼ばれるものでできているというのが仏教の考えである。それは心身を構成する色、受、想、行、識という5つの現象の集合体である。
「色」とは物質的現象で体そのものを意味する。残る4つが心の現象部分で、
「受」とは少し複雑で、六根と呼ばれる眼・耳・鼻・舌・身・意が、各々に対応する六境と呼ばれる色・声・香・味・触・法によって感受される感覚である。目で見えるものが色、耳に聞こえるも のが声、鼻に匂うのが香、舌に感じるものが味、体(皮膚)に感じるのが触、意にいだくものが法という思い、と説明されている。
「想」とは受という感覚、例えば赤いりんごとか青いりにごなど、目から知覚されたものが受ける認識をいう。受の感覚に対する想という知覚である。
「行」とは知覚されたものに対して芽生える、りんごなら食べたいと思うような意志である。すなわち特定の方向に向かった気持である。
「識」とは唯識でいう阿頼耶識のようなもので行で芽生えた意志の結果で、それが実行した、しないに拘わらず体験したり見聞したりした全てをしまっている蔵のようなもので、受、想、行の主体となる深層心理のようなものである。
以上が人間を構成するものなのであるが、それらの全てが般若心教では空という。

ではなぜ我々が見る赤いリンゴなどが空なのかというのが問題である。物体は光の三原色によって作られた色として目に知覚される。しかしその色は光の角度や強さ、空気などの状態で一定でいる事はない。常に変化しながら目に届いている。その意味では声も匂いもあらゆるものは無限の関係性の中で変化しながら我われに届いている。すなわち、あらゆる現象は単独で存在するものはなく、無限の関係性のなかで絶えず変化しなから発生する出来事なのである。常に変化しているので固定した物体はない。すなわち現在あるものは次の瞬間には変化したものになっているので、それは何もない状態というゼロという意味で空なのである。その意味での色即是空なのである。

もう少し具体的に言えば、人間が見える物体は別の動物、例えば犬や猫に同じ見え方がされている事はない事が証明されている。動物や植物なのは種によって見方や感じ方までが異なっているのである。犬は人間より赤外線を多く感受すると言われているし、鳩は紫外線を多く感受すると言われているので、それらのものの見え方は人間とは明らかに異なっている事は容易に想像できる。だから空ということは実体がないのではなく、各々が見たり聞いたりしているものはそれぞれの見方や感じ方ですべて異なっているという意味での、見る側が特定した個別特有の実体はないという意味でもある。その逆が空即是色である

空即是色とは、対象となるのものには見る側が特定している特有の自性というものがないのであるから、感受する側の感覚器官によった特定の色として現れるものであるという逆説的な意味のものである。人間には人間として見るものとして現れ、犬には犬が見る形で現れる事が空即是色である。もちろん人間同士でも、見る対象が個人によって好きか嫌いかなどで異なって見える場合もある。好きであれば良く見え、嫌いであれば悪く見えるような事を指す。だから決して自分以外のものに実体がないとは言っていない。あくまでも存在するものは常に変化しながら存在するのである。それが諸行無常という言葉で表されるものである。

以上が般若心経でいう空の思想の根本原理である。釈迦が悟りに至ったのは苦というものから解脱したことを意味する。その解脱の原因を彼の死後数百年もたってから理論づけたものである。何かに拘っていては苦からまぬがれえない。何かは空なのだから拘るなということの意味を理論づけたのである。個別に存在するものは無い、全ては他との関連でしか存在しないという考えは西欧の個の存在の重要性とは真っ向から対立する。日本人に深く残る他との共生というものは、仏教の利他の概念と、般若心経の空の理論とも深く関連していると思われる。明治維新以来、仏教は否定されてきたが、日本人の心の中で空の概念は依然として潜在的に存在していると思われる。

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