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明治維新による国民意識と現代の国民というものの違い

徳川幕藩体制は1867年の大政奉還によって明治という時代に大きく変わることになった。しかしながら討幕の主体であった薩摩と長州藩の西郷隆盛や桂小五郎(木戸孝允)らは、その目的自体が討幕というもので、その後の政体などについての具体的なものは何も持ち合わせてはいなかった。その道筋をつけたのは紀州藩士であった津田出(いづる)という一藩士の思想であった。西欧列国からの侵略の恐怖を排除するために藩政を改革を実行したものは後の明治政府がモデルにしたものになった。いずれにしても明治政府は、後に憲法の作成と国会ができるまでは律令時代と同じ「太政官」政府と呼び、少数の討幕主体の武士出身者による専制国家の体制でスタートしたのである。従って廃藩置県などの大きな改革なども短期間にドンドン進めることができ、明治10年くらいには国の骨格が出来上がるまでになったのである。

江戸時代には300あまりの藩があり、各々は独立国と同じであった。幕府は自らの領地と天領というものからの収入だけで国を運営し、各藩は自前の収入の中で藩を運営していた。それらの全ては武士階級が行うものであり、戦(いくさ)というものは侍階級の仕事とされていた。戊辰戦争などの維新の多くの戦いでは、百姓、町民というものは全くといっていいほど関与していない。その意味では武士階級以外に国家というものに対する考えはまるで違った物を持っていたに過ぎない集団であったのである。それが明治維新になって大きく変わってくる。

江戸城の無血開城で大きな役割を果たした勝海舟は、早くから「国民」という概念による平等思想によった国の形を考えていた。また福沢諭吉は幕末からアメリカとヨーロッパを見ていたために「西欧事情」という本を書いて、欧米の国家と社会の在り方を当時の人々に平易に紹介した。維新直後は、多くの人々が四民平等の思想という改革意識に燃えていたのである。福沢はまた「丁丑公論(ていちゅうこうろん)」という論文によって太政官制度の専制政治を非難した。これらの多数の意見は、無意識的にしろ「国民国家」というものの創生を望んでいたのは明らかであった。それらを決定的にしたものが中江兆民によるルソーの社会契約論を紹介した民約論であった。これにより自由民権運動がおきたのであるが、それは明治7年という時期的には遅いものであった。しかしこの運動も明治22年の大日本帝国憲法の発布と、翌年の国会の開会で急速に消滅していった。国民と言う概念は現在のものとは大きく異なり、大多数の人々にとっては政治への参加とか、国会の開催などを求めるものであった。彼らは人権というより、むしろ国家と一体化できることの方が大事と考えていたので「愛国」という言葉が主体となっていた。現在の個人の自由とか権利という「私」の問題より「公」というものに奉仕するという観念の方が強かったのである。

明治憲法は出来たのであるが、その中身はかなり充実したもので三権分立があり、言論や結社、集会の自由なども謳われた進んだものであった。天皇を元首とするものの、実態は内閣の決定の追認という象徴に近いものであった。唯一の失敗がドイツの君主制に従った軍隊の統帥権という、国会を無視し天皇に軍隊を動かす権限をもたせたことであった。それによってわが国は軍部官僚の暴走を止められずに破綻するのである。このように急速に近代化した背景には、武士階級という公私を厳格に区別できた優れた集団と、少数の国民意識を作り上げようとした知識人の役割が大きかったのである。それが破綻に向かったのは、結局は公私の区別が厳しかった武士階級がいなくなり、変化ができない官僚制度が硬直化した結果である。それは現在の我が国も同じ構図になっている。我々はもっと歴史から学ばなければならない。

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