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自我の否定と自我の確立、どちらが正しいのか

仏教は苦からの離脱を求めて自我というものを否定する。一方、西欧の思想は自我の確立こそが最大の問題とする。理性という人間の持つ意識こそが人間と人間以外を分かつものとした西欧の哲学はキリスト教を経てデカルトの二元論になり人間と人間以外の物質という概念で世界を見るに至った。このどちらの考えが世界を救うのであろうか。片や人間と自然の全てに生命という基本的なものを見る考えと、世界は人間のために存在するという思想のどちらが正しいのであろうか。

これまで何度も意見を述べてきたが、今、私は単純な命題を提示したい。世界は平和を求めるのか、それとも自分たち、自国だけの繁栄を求めるのかという問題である。19世紀の西欧の国家覇権主義は明らかに自国の繁栄だけを求めた結果である。それは一神教による宗教という道具による異民族や異宗教徒の支配そのものである。その延長は現代のユダヤ教を含むキリスト教国家とイスラム教国家に如実に表れている。自分たちの神が求めるもの以外を全て拒絶する排他的な思想である。キリスト教は愛の宗教という仮面によって、ユダヤ教の排他的なものがユダヤ社会に限定されていたものを全世界に蔓延させた。どちらの神も自分を信じないものには最終的には死をもって償わさせるという恐ろしい思想がある。それはイスラム教も同じである。これらの宗教がいかに取り繕ってもその目的としている事を隠すことは不可能である。過去と違って世界はあらゆる意味で密接に関係した小さな世界になっている。インターネットを始めとした新しいコミュニケーション手段は時間的な制約から解放され、あらゆる情報の世界的な共有を可能にしている。そのような世界では、過去の排他的な考えだけで世界が一つになることは不可能である。異なる排他的な神の存在は、そのまま紛争の原因にこそなれ、世界をまとめる事が不可能である事は誰が見ても明らかだろう。

ならば仏教の思想はどうなのであろうか。私はあえて言いたい、なぜ日本の仏教学者たちは沈黙するのか、せっかくの素晴らしい人間というものの本質を明らかにしているこの思想を世界に対して大きく訴える事をしないのかと。これほど平等で生命というものを考えた思想がどこにあるというのか。平和憲法という日本の根本的な思想をこれほど明確にする哲学をなぜ世界に提示しないのだろう。今の日本が何も世界から顧みられないのは単なる平和憲法という言葉だけだからである。その背後にある確たる哲学がなければ誰が納得するというのだろう。その意味で大乗仏教の基本理念である「空の思想」ほど世界が求めるものは無いだろう。自己の確立が我欲というものになり世界を対立的に見る根源となるという空の思想、これを哲学的に説明する事こそが日本人の使命ではないのか。勿論、物質的な繁栄の全てを否定しては何の意味も持たない。しかしその物質的な繁栄の上になる人間というものの思想がどうあるべきかを問わずに未来はあるのか、それを世界に問うくらいの勇気を持つべきなのだ。世界はますます不安定になっている。今こそ日本人としての過去の素晴らしい思想の出番ではないのか。

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