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なぜ私は日蓮宗を非難するのか

特定の宗教を非難するのは心苦しい。自分にそれだけの深い知識があるとは思えない。しかし宗教とは基本的に万人が救われるものでなければならないはずである。それがどのような神であるにせよ、他との対立を煽るようなものでは何の意味も持たない。ちょうど民主主義と独裁主義を比較するようなものである。だから自分はユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教を非難し続けている。その意味では自分の名を課した初めての仏教が日蓮宗という一神教である。

前にも非難した通りに法華経以外を信じないといういわれのない理由で他の全ての宗派を非難した日蓮宗の傲慢性を私は認めない。それは大乗仏教の否定する二元論による考えそのものだからだ。我欲とまで言わないとしても、自分の考えというものを大乗仏教は否定している。自分というものの存在はあらゆるものの中の生命のつながりの一つに過ぎないというものが大乗仏教の根本思想でなければならない。その時に初めて争いは無くなる。日蓮はそれを基本的に破壊したのである。しかも、もっと許せないのは全てが他人の模倣に過ぎない事である。念仏という他力本願から題目というものを作った事は模倣以外のなにものでもないだろう。念仏を非難しておいてその模倣とはあきれたものだ。密教からは加持祈祷をまねて立正安国論なるものが生まれ、法華経の中の観音信仰にあるものから竜の口の法難という、自分を殺そうというものの刀が粉々に割れて助かったというものをでっち上げた。日蓮の言う全てが捏造と思われても仕方がないものである。そこに大乗仏教に見られる根本的な思想が抜けている事に加え、許し難いのは現世利益というものだけを強調する事である。その結果、現代の新興宗教はほぼ100%がその教義の基本に日蓮宗をおいている。西欧の真・善・美というものをまねた利・美・善を教義とする創価学会はその最たるものである。

仏教の素晴らしさは多神教と同じの全ての生命の融和性にある。それを否定するものに仏教という心は存在しない。どんなに取り繕っても結果として対立を生むものは仏教とは言えないのである。

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