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般若という仏教的な原点

般若という言葉で大多数の人が思い浮かべるのは、能などで使われる女性の嫉妬した顔を表す角の生えたお面であろう。それは般若坊という有名な能面師からつけられた名前であり、仏教での般若の意味とは何も関係はない。

空の思想を展開する般若心経における「般若」の意味するものは、西欧における人間の理性などから求められる理知という科学的なものと真っ向から対立する思想である。人間が頭で考える科学的な考えによる知恵や知識の知ではなく、般若とは瞑想などの実践的な行の結果得る事ができる「ひらめき」に近い実践の智というべきものを指す。そこにあるのは西欧の合理性などという考えを越えた仏教の哲学的な認識である。

我々は西欧思想による個の確立とか独立という事を教育されている。そこにある思想は、人間があらゆることに優先されるという17世紀以来の西欧の傲慢的な哲学である。デカルトの二元論による思惟する自己とその延長上にある物体という考えは、人間以外の動植物や自然を物としてとらえる事で人間の支配を当然のものとしてとらえ、それに従って科学技術は発展してきた。全ての自然の出来事は数学的にあらわせるとか、秩序が必ず存在するとして人間は科学技術を発展させてきた。もちろん、それによって人類が得た利益は大きい事は事実である。しかしながら時代が進むにつれて、我々は物質文明という巨大な現代文明の中で行き場を失っている。西欧中心の物質中心の思想は、キリスト教などの一神教という多様性を認めない宗教と共に完全な隘路に陥ろうとしている。

仏教においては個という考えこそが苦の始まりであるという全く逆の思想になる。自分を中心に世界を見る事は幻想であると言うと大多数の人は笑い飛ばすに違いない。個人の幸福の追求こそが目的であり、それを否定した人生は考えられないのであろう。ある意味では当然である。しかし、本当に個人の考え中心で、我々は救われるというより幸せは得られるだろうか。言葉で考える世界は誤謬に満ちている。概念というものは個人の考えで多種多様に理解され、他人との誤解のもとになる。自己中心の考えだけでは世界は理解できない。個の確立によって言葉というもの自体が自分勝手に解釈されて、その結果、全体を分断するものになってしまっているのである。

般若による実践の智は全く別の思想である。言葉に基づかない覚醒と言う事で世界を理解するという非合理性こそが正しいとするものである。西欧の科学技術や理知的な解釈ではとらえきれない生命というものを考えるとき、人は心の存在をどのように考えるべきなのであるのか。それ自体が合理的に証明できないのであれば、心というもの自体も迷信と言う事で片づけられるのであろうか。それを心と言うのか、それとも霊魂とでも言うべきかは問わない。しかし世界には明らかに我々が科学的に解明できない数々のものが存在する。DNAの存在が証明されても、DNAがなぜ存在し、突然変異がなぜ起きるかなどは解明されない。生命の基本はどのようなものかという根本的な事について我々は全く無知なのである。

般若と言う実践により感じられる智は、個人中心のものの見方や考えを否定する。個は全体の中で絶えざる変化にいるものの一つにすぎず、全体なくして個はあり得ず、個のない全体もないのである。あらゆるものは一定の場所にとどまることはなく、常に変化しながら無限の関連性の中にあるだけなのである。それを無常と言う。従って、我々が使う言葉と言う定義であらわされるものは仮のものでしかないのである。ここから「空」という全体性の中の関係を感じられた時に人は「涅槃」という境地に達するのである。そのとき我々は初めて苦から解放され、真の安らぎが得られるというのが仏教の基本的な考えである。

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