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国家の品格という本を考える

新潮新書から2005年11月20日に出版された藤原 正彦の著書である「国家の品格」という本が今頃になって見直されている。そこにあるのは西欧思想の合理性という考えに限界と欺瞞を見るものであり、一読の価値はある。ただ簡潔に解説するために、全てを武士道の精神でわが国の過去の道徳を見直せというのは無理がある。江戸期の武士の道徳観は儒教が主体のものであるが、朱子学を主体にした水戸国学なども大きな影響を持っていたことも事実である。ただ国学の見方の代表である本居宣長の日本文化論は、明治以降わが国の文化に対する偏見を植え付ける原因となり正しい理解の妨げとなった事も事実である。全てを「もののあはれ」で単純化して解釈するようなものは、本来の日本の思想を説明するものでは断じてない。

確かに国家の品格が述べているように、道徳という基本を日本が戦後の教育から無くしたことが原因である事は正しいだろう。しかしそれを武士道だけに基づいたもので教育すべしというのにはあまりにも短絡的な指摘と言わざるを得ない。また民主主義の主権在民はポピュリズムにすぎず機能しないという指摘も短絡しすぎである。そのためにエリートを育成せよという思想は理解できるが危険であり、もっと精緻な論理が必要だろう。それは階級というものを肯定する事になり、何を基準にエリートを作り、そのエリートだけが国を動かす判断をするというのにも無理がある。へたをすれば今の官僚機構を認めるものに利用されかねない。

やはり本当の意味で国家の品格を問うならば、それは我が国の縄文時代からの歴史の正しい認識と、過去の原始神道や仏教、中国の思想である道教や儒教や朱子学がどのように日本人に影響を与えたかという正確な分析が必要である。そのうえで何が過去の日本人に品格を与えたかを考察すべきであり、それに基づいてわが国をどのような国家にするのかという主張が必要だろう。武士道だけがわが国の文化を作ったわけではない。神道だけでもない、仏教だけでもない。それらの全てが複雑に絡み合って江戸期の武士たちやその他の国民の道徳的規範が形作られてきた事を理解すべきである。その上で、明治維新で作られた国家神道の間違いを指摘しなければ、結局は全体主義としての道具して神道が再利用されかねない事になる。すでに靖国問題は官僚とマスコミによる世論操作によって、その本質を外交問題と言う事に意図的に歪曲されて正当化が図られようとしている。国家神道が明治という国家を中央集権にするための精神的な柱にするための道具として作られた事を正確に認識しない限り、靖国問題の解決は絶対に不可能である。

わが国の品格は、西欧思想と根本的に異なる仏教の思想を主体にした自利利他の考えと、原始神道にある全てのものに神を見る生命の思想を柱にすべきである。この長きにわたる神仏混淆の思想が明治維新による廃仏毀釈によって失われて以来、わが国の道徳は低下の一途をたどった事は間違いがない。新渡戸稲造は日本人が無宗教なのに高い道徳心を持っている事を聞かれ、理由が分からなかったが自分が教育されたことを理由にとっさに武士道という言葉で日本人を説明したことが海外で評価されたに過ぎない。わが国の現状は日を追うごとにひどくなっている。官僚という公の精神を完全になくした公務員達は国民を欺き、私利私欲に走り、道徳のかけらもない大多数の国会議員たちは国民からも外国からも国家観なき思想によって完全にバカにされたままである。国家の品格を取り戻すには、西欧思想ではないわが国の過去の優れた思想を取り戻し、その中の何を道徳の規準に持つのかという根本的な議論なしには再生できないだろう。我々は余りにも過去の日本という国家を知らなすぎている。この本はそれを思い起こさせたという意味で優れているというべきである。

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