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宗教的痴呆状態が精神の荒廃をもたらしている

現代の米国や西欧の中にはキリスト教というものが形としては精神的なバックグラウンドとして厳然と存在している。しかし、米欧も含めて、世界は経済的な発展が進むほど、宗教的な基盤は人間中心の思想によって、神という存在は日増しにわきに追いやられて物質的な人間の世界というものに成り果てようとしている。この事は明治維新の廃仏毀釈という制度によって、現代のわが国社会にはもっと顕著になっているように見える。

戦前は、明治維新によって新しく作られた国家神道というもののもとでの、天皇を神とする考えのもとで国民の統一が図られた結果、道徳の基準は全てが国家神道によりなされていた。しかしながら国民の間には、忠君愛国という考えだけではなく、江戸期から続いた儒教的な思想や仏教による思想も色濃く残り、家庭でのしつけや社会的な規範にも過去の優れた思想は残されていたのである。戦後は戦前の道徳的な規範そのものがすべて否定され、民主主義における自由や個人の権利だけが拡大解釈されて、道徳的な規範を何に求めるかという大事なことは忘れられてしまった。敗戦によって全ての価値観が逆転し、国民は精神的な痴呆状態と、天皇のために死ぬという重しからの解放感という両方を味わったのである。経済的な発展による個人の利益の追求ばかりが求められ、大多数の親は子供を良い学校に行かせ、良い会社に就職させることだけが良い人生を送れるものだと信じて疑いもしなかった。

すでに明治維新の廃仏毀釈によって仏教は壊滅的な打撃を受け、さらにねつ造された国家神道によって、わが国の古来からあった本来の神道も間違って解釈がなされた事で、日本国民は道徳の規範となる精神的な裏付けとなる宗教的な基盤を失っていた上に、戦後の思想の大転換により、現在の大多数の人は精神的なバックグラウンドを何に求めるべきかという問題を棚上げにしたまま今日に至っている。過去の優れた仏教や、武士階級の中に存在した儒教による精神的な修養による高い道徳観は無くなり、国民の中に存在していた世界でもまれにみる高い品格は完全に無くなろうとしている。道徳という言葉さえ時代遅れのような考えが国中にあふれ、国民は経済的な成功以外に何を求めて生きるのか、誰もが精神的な放浪状態にいるように見える。個人的な利益の追求という考えがはびこり、公私のけじめは完全に消え失せた結果、おおやけの仕事をするべき公務員と政治家の劣化は特にひどく、これらの集団は国民のためという目的を逸脱した、私利私欲だけの追及を図るだけの寄生虫に成り果てている。学校の成績の良いものだけが行う官僚機構という歪んだ形態が政治家と一体になって国をますます間違った方向に導いて、国民生活はどんどん悪い方向に進んでいる。

道徳の規範を決めるものは、その国に過去から続く精神的なものを除いては絶対に存在しない。人間だけが正しいものとして神の存在を忘れた時、そこにあるものは物質的な人間しか残らない。それは現代の精神を忘れた巨大な物質文明が証明している。国民の品格を取り戻すためには、何度も繰り返して意見を述べているように、過去の優れた仏教や原始神道に見る全てのものに生命という神を見る思想の見直しは絶対に必要である。神を否定したことが人間中心という間違った社会を作り出してきたのである。西欧至上主義ではない日本という国民の思想を取り戻す必要がある。

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