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学者を含む知識人といわれる者たちへ

マスコミなどに頻繁に出てくる評論家であるとか知識人といわれる者たちは何かを聞かれた場合、一体どのような基準で何を話しているのであろうか。その内容に我々は本物なのかどうかを感じ取る事ができる。常に官僚たちや政府の思惑通りの結論を出す者たちの意見に懐疑の目が向けられるのは当然である。今ここに梅原猛という哲学者が述べた次の言葉を学者たちに伝えたい。

「学者にとってなにより大切なことは、私を捨てる事である。自己のあらゆる偏見や利害を捨て、真理そのものにつく、そして真理のあるところ、それがどんなに自分にとって損であっても、やはり真理のおもむく所につく。そういう心なしに、とうてい我々は真理を見出すことができない。そして、このように真理が客観的なものであるならば、どうして人の思惑などを気にすることがあろうか・・・・」

この言葉には私利私欲をいましめる強い信念がある。本来、真理というものを追求すべき学者という人間が、本来の意味を忘れて、特定の者や団体の利益のために真理をまげてはならないというメッセージである。しかるに我が国の学者たち、特に国立大学を中心とする専門家と言われる人々の言動はあまりにもひどいものがある。原発事故の対応や、その後の汚染された食品に対するコメントのひどさは信じられないような言葉の連続である。学者としての良心などはどこにも見られず、東電や監督官庁の意向に沿った意見に合わせるような意見ばかりで国民を間違った方向に導こうというさもしい学者のいかに多い事か。本当にこの国の劣化はすさまじい。知識人といわれる者たちの大多数は、科学技術振興という官僚による補助金政策のもとに飼いならされたピエロになっている。法律や政策を作る場合のなんとか委員会の人選でも、このように官僚たちに都合の良い人間たちが意図的に選ばれて委員になっている事は、今回の公務員住宅の在り方にも見られる常套手段になっている。真理を追求すべき者が、真理ではなく私利私欲を追求する者に成り果てているのだ。

この国は何も信じられなくなっている。国民は信じられる基準を何に求めるか自らの判断基準を失っている。その結果、マスコミは権威というものを最大限に利用し、何か問題があれば専門家と称するこれらのエセ学者の意見で世論操作をし放題になっている。我々は何が正しいのかを判断できるネットという手段を得た。過去のように新聞、テレビというマスコミ情報だけで判断する必要はなくなった。しかしながら我々自身が何をもって正しい事なのかを判断する基準は持ち合わせているのだろうか。そこには道徳という基準がなければならない。現代の日本人に失われているもの、それこそが過去の日本人の持っていた武士たちの儒教に基づく厳しい公私のけじめとか、自利利他という仏教の思想などの優れた思想なのである。物質的なものの追及の裏で失われた精神という大事なものを、我々は今こそ見直さなければならない。そして我々は知識人といわれる者たちにも警告する。嘘つきはいずれ軽蔑されるだけの人間になるだけであると。

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