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文化と文明について

文化と文明の違いの定義が最も端的に表されているのは司馬遼太郎による分析であろう。「文化とは日本人が三つ指をついて襖を開けるような特定の集団の中の価値観に基づく規範の集合体である。文明とは誰がドアーの前に立っても自動的に開くという自動ドアーのような状態になることをいう。」

これをさらに検証すると、文明とは科学技術による人間の行動の普遍化の促進と定義できるのだろう。西欧の人間中心の思想によって、世界はますます科学技術による発展だけが正しいようなかたちが19世紀以来続き、今日になって数々の問題で行き詰まりを見せている。その最たるものは原発問題や環境破壊、なくならない戦争問題であろう。宗教による問題も文化の違いという問題の一つとしてとらえれは、そこにも違いを認めるのか、認めないのかという問題があり、根深い問題の一つになっている。さらに世界は、BRICsと呼ばれるものに代表される新興国の経済的な対応でも混迷が深まり、新しい精神的なよりどころが求められる必要性が過去にないほど大きくなっている。

そのような中で、わが国の国民の精神的な劣化は著しいものがあり、現在のままでは到底、世界をリードできるような考えを誰も提供さえできる状態にないのは明らかであろう。政治家も知識人と呼ばれる者たちも、戦後の価値観の大逆転の中で、全員が道徳という問題を棄て去り、経済的な豊かさだけが全てを解決できるような幻想のまま今日まで来てしまっている。過去にあった優れた文化は、その後ろに存在する精神的なものを忘れた技巧的なものしか見れない状況が続いている。道徳のない社会は、物質的な欲望が優先されるものとなり、社会をリードすべき政治家や知識人といわれる者たちほどその劣化が目立ち、おおやけの仕事をするべき公務員である官僚、警察、検察、裁判官に至るまでが私利私欲だけしか考えない存在に成り果てようとしている。

過去に何回も同じ問題を提起しても、わが国の国民は道徳という言葉にさえ拒否反応があるかのように無視を続けているように見える。文明の追求だけで世界はどうなるのであろうか。その答えを問わなければならないのに、誰もが本質的な議論を避けているように見える。我々は異文化を認め、違う神という宗教も認め、共存共栄が可能な社会の実現を目指すべきなのではないのか。それが本来の平和憲法の求めるものなのではないのだろうか。わが国だけが戦争を放棄するだけで自国を守ることなどできるわけがないのは子供でも分かる理屈である。何をもって平和を求めるのかという大事な点を一つとっても国内に確たる思想がない。あまりにも情けない国になっている。たった一度の経済的な成功に酔いしれて、国民の幸福を何に求めるのかという議論もなく66年も過ぎてしまった現在、我々はもっと精神的な問題を深く考えるべき時に来ているのではないのだろうか。西欧至上主義による物質文明だけでは世界は必ず行き詰まりを見せるのは目に見えている。今、多くの国民がそれに気づいて、そして精神的なものの重要性を再確認すべきである。その上で、わが国の過去の思想の見直しと共に世界の思想を見て、人類にとってどのような思想が必要なのかを議論すべきである。異なる文化を認め、戦争のない世界を作り上げ、その上に自然とも共存できる素晴らしい文明を築きあげるべきである。19世紀以来の西欧の人間中心の物質文明の思想では世界はもはや救われない。ダライラマは先日の記者会見で、発展途上国に原発は必要だと述べたが、それに対して誰も反論さえしなかった。明らかにダライラマも西欧による科学技術文明こそが国民を豊かにできるものと勘違いしている。貧しい国が豊かになるためには支援が必要である。しかし物質的な支援だけでは良い結果はもたらさないだろうという典型を見る思いがした。精神の問題を無視して未来はない。

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