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あらゆる宗教は心という物質でないものに原点を求める

私は一神教を非難し続けてきた。ある意味では間違っていたと思う。人間は誰でも自分がかわいい。そのために努力して世界は発展してきた。人間のために科学技術を使い自然を支配する事で人類が発展できてきた。今それを非難しても意味はない。現在の発展途上国も同じ恩恵にあずかることを非難する資格が我々にあるのだろうか。人類は何のために豊かになろうとしているのだろう。

人は必ず死ぬ。それはあらゆる人類に課せられた平等の摂理である。誰もがそれを悩み、考え、数限りない思想が生まれた。思想という言葉が間違いなら宗教が生まれた。全ての人は生きる事に意味を求め、自分の存在について他人からの評価の軽重で自己の存在意義を図ってきた。その評価の基準のために宗教も哲学も存在意義があったのだろう。特に西欧の人間至上主義においてこの考えは顕著である。インドから東洋諸国に派生した思想はこれとは対極的な思想である。しかし、それも究極的には個人というものの救済に過ぎない。それが狭い意味での個人であるのか、それとも宇宙という中に大きな意味の中の個人かという違いなのだろう。どちらを求めるのかは私が決める問題ではないと考える。一神教でも、それが個人を越えて他人のために犠牲を払う心は尊いものであり、それを非難した私はあまりにも傲慢であった。表面しかかじっていない仏教の思想を、全て分かったような事を言ってきた事を恥じる。あらゆる意味で手段は関係なく他人を思いやる心は正しい。それを非難したら何の意味も無くなるだろう。宗教とは個人より上の神という倫理を認める事に他ならない。

我々は過去の歴史を物質だけで見てはならない。人類の発展が永続するためには自然の搾取だけでは意味がないが、それは所詮は人類の都合による考えに過ぎない。人類が滅びれば自然は勝手に再生し、新しい地球が生まれるだろう。だったら自然は人類との共生など望んでいないだろう。人類が早く滅ぶ方が幸せなのだ。人間が物質だけを求めて滅んでくれと日々、願っているだろう。

だからこそ逆説的な意味で我々は共生と言う事を強く願わなければならない。一神教による個人の救済のために他人を救う思想も認めよう。自己は宇宙の一部に過ぎないと言う仏教の思想も認めよう。あらゆる意味で我々は自己だけが正しく、他人を犠牲にしたうえで繁栄すると言う思想を排除すべきである。他人や自然のために生きると言う共生の哲学だけが世界を救えるものだと信じる。その意味では一神教という唯一絶対神は異教徒も認めるという、さらなる偉大性が求められる。精神は常に物質より上にいなければならない。それこそが宗教という意味の神の存在なのだと信じる。

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