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変わらない教育制度の行く末はどこなのか

明治維新は、西欧の圧倒的な武力による侵略の恐怖からの国家の再生であった。300にもなる藩という独立した行政制度を解体し、中央集権により国家を一つにまとめ上げ、そのために国学を利用して天皇を中心にして新たに生まれた「国民」という人々をまとめ上げ、富国強兵の国づくりが求められたのである。それは江戸末期の武士たちの正しい歴史判断であった。西欧の科学技術による優位さを認識できなかった巨大な文明国家であった中国が、結局は米欧列強に屈して植民地化されたことで、結果として日本より50年以上も出遅れたことがそれを証明している。16世紀の後半以降、西欧は科学技術という武器により非西欧諸国を次々に征服していったのである。唯一、極東という地理的にあった日本は、開国と西欧思想を受け入れたために征服を免れたのである。

明治以来の日本の教育制度は、正に西欧を目標とした科学技術と制度や思想の移入による富国強兵のために作り上げられた。天皇を神とする国家神道を作り上げ、幼少期の子供たちには教育勅語なるもので国のため、天皇のために尽くすという忠君愛国という道徳教育がなされ、その後は科学技術や制度、思想の移入のために必要な数学と英語が最優先され、国民や他国の植民地化の統治に必要な法律が最重要視されてゆく。結果として東大法学部や技術のための工学部が最高学府と呼ばれることになっていったのである。明治以前に重要視された仏教や儒教に基づいた心の教育は完全に無視されてしまった。

16世紀末以降の西欧思想は、ベーコンの「知は力なり」という言葉や、デカルトによる「思惟する自我と延長する物質」という二元論により、人間以外のすべてを物質に見立て、それを精密に研究することで科学技術を発展させ、結果的に強大な力を保有することになる。その有様を武士たちは正確に見ていたのである。しかしながらその本質は、支配せんとする意志の力の文明にすぎず、理性の信仰は欲望の解放という本質をあらわにして来ることで思想的な行き詰まりを見せた。ヘーゲルに代表される国家の絶対化による弁証法の理論は、結局、西欧の本質が世界を支配せんとする意志の表れであった事を示している。物質的な欲望は自然を支配することで次々に拡大し、人間は確実に豊かになったが、その行く末がどこになるのかという問題が生ずる。しかしながら、西欧の良い面しか見れなくなった我が国は、その西欧の行き詰まりを認識できず、結局は太平洋戦争で国家の破たんを迎えたのである。

戦前の教育の中にあった国家神道に基づく道徳教育は廃止され、戦後の知識人たちは道徳というものをどうすべきかという議論を放棄した。国民は敗戦による廃墟の中から、物質的な欲望を満足させることを第一に懸命に働き、結果として世界が驚くほど速く復興を成し遂げたばかりか、急激な経済的成功まで実現した。結果として教育も、良い学校、良い大学、良い会社、良い生活という物質的な欲望追求の社会になっていった。大学は理性の府といわれるが、そこで求められることは技術的理性となり、自然を利用した科学技術や人間支配のための法学部だけが最高のものとされる方針は変わらないどころか強化されてきた。政治の問題も、経済というものだけが大きくなり、国家の向うべき方向は何も議論されずに今日まで来ている。米国への依存で戦後の経済の立て直しは成功したが、その方向性の見直しは何もなされず、戦前の失敗を何も反省していない未来のための議論がない同じ構造の失敗が繰り返されようとしている。

我々は教育の目的を技術的理性ではなく、精神という心の問題を大切にする本来の理性の府に求められる智慧のための理性の府にしなければならない。人間の欲望を最上の目的にすることは間違いである。欲望に限りがないことは歴史が証明している。全ての宗教は欲望の抑制を求める。特に仏教はそれを厳しく律する。本来の道徳を求める意味でも、日本人の祖先の中に脈々と流れていた仏教、そして自然のすべてに神を見る本来の神道や、江戸期の武士の教育の基本にあった儒教の倫理観などの見直しが必要である。それを基にした教育の復興こそが本当の意味の戦後の日本が作られるきっかけになると信じる。人間は歴史的なものに過ぎないという有名な言葉のように、我々は歴史を正しく見直し、我々と世界の行くべき道を正しく見るべき時に来ている。

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