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近代民主主義の原理の概要

西欧で作られた現代の民主主義の原点は何にあるのか、それはデカルトによる「われ思うゆえにわれあり」という人間と、その延長にある物質という二元論に始まることを説明しなければならない。中世というキリスト教のもとに統一された西欧の中に、バラバラに存在していた各地の共同体は、生まれながらに決められた身分、僧職にあるとか貴族であるとか農民であるとか、個々に生まれながらの身分の範囲で、各々の決められた価値観を守りながら生きる世界から、人間として個々人が、そのような規制の範疇を超えて存在するという考えで変わってゆく。中世の理性とは、個々人の範囲を認識し、同時にその身分的な範囲の中で求められる理性であった。その意味では、デカルトの自然を物質としてとらえ、自然科学を発達させて人間がそれを支配してゆくという、身分を超えた本来的理性ということが西欧の変化への大きな契機となるのである。

まず国家が出来上がるのは、ルネッサンスと呼ばれる運動によって、人間の根源的な本来の尊厳の問題として、中世の身分的なものが崩れてゆくことから始まる。そして生まれながらに決められた人生を否定して、マキャベリズムと呼ばれる現実的な人生を規定する意味での、個々人の欲望的行動の是認に進む。そこから権力に基づく支配による国家という概念が生まれる。それは神とは完全に分離された、人間による政治支配の形態に代わるのである。そしてドイツのルターによる宗教改革が、教会を媒体としていたキリスト教の共同体の構造を破壊する。人間は教会のもとに存在するものから、人間と神との直接契約による独立した個人になる。それをフランスのジャン・カルバンがさらに進め、神によって定まった理性など存在しない、この世は混とんとしたものであり、それを合理的なものにするには、中世の身分的な範囲の中で与えられた理性の中ではなく、個々の人間が理性を「自己の能力」としてとらえなおすことから始める。ここに初めて個人が新しい価値を創造するものとして出来上がるのである。

自然という観念は、日本人が人間と一体化として考えるものと大きく変えられる。自然は人間と対立した存在となり、自然は物質になり、それ自体を精密に分析し、自然科学となって人間が利用するものに変えられてゆく。西欧の人間の自然状態とは、生物的な存在状態、すなわち生存のために存在する、食べたり飲んだりが必須の生き物として捉えられてゆく。そこにもともとあった神は人間を神に似せて作ったということから、人間は自然を支配し利用するという思想になってゆく。宗教もまた、ローマ教会が普遍的に西欧全体を担っていたものから、国家というものが個別に権力の使用のための道具として、個々に存在するものに変わってゆく。唯一のキリスト教ではなく、国家による異なる多元的なものになってゆく。そして権力は、権力側が選んだものを、そのもとにいる人々に強制するものに変える。それにより、過去には存在しなかった宗教戦争なるものが出現するのである。

国家というものは「主権」という言葉に置き換えられる。主権とは社会の中での最高権力であるとともに、対外的にはキリスト教社会のような普遍的な拘束を超えた、独立した最高権力を指す。そして前述の自然に対立した人間には、その自然を認識する自律した存在としての人格というものが与えられる。人間は人格という存在になり、過去にあった中世という世界の中の、既に存在していた世界の中で与えられた場所にだけ存在していたものから全く逆の、個人が存在を作るという社会の構成原理が作られるのである。そこから権力と個人の関係が考えられるのである。その中で、国家とは国土ではなく、人間が組織したものであるとみなされる。我が国が戦後規定した建国記念日は、その意味では近代国家の理念とは大きく違う。2月11日は、日本書紀にある神武天皇が即位した日であるから、その日を建国記念日としている後進国家なのである。あらゆる近代国家は、中国も含めてこのような記念日にはなっていない。米国は独立記念日としての7月4日、フランスは大革命の記念日として7月14日、中国は現在の国家の組織を決めた10月1日が建国記念日である。

自由の問題は、内面の自由、すなわち宗教の自由、思想、言論の自由となり、権力は人間の内面に及ぶものであってはならないものとなってゆく。新しい考えは、新しい形の政治社会の実現に向かう。そして自由も、身分的な特権の範囲を超えた、人間が人間として生まれながら持ち、与えられている権利として確立してゆく。人間がどんどん存在を主張する社会になってゆくのである。

ここから近代の民主主義の原理を確立した3人の思想を概観する。まず17世紀に英国のリバイアサンという国家の絶対的権利を主張するトーマス・ホッブス、その根底は富というものがまだ自然科学の恩恵を受けずに限定的なものであった社会環境から生まれる。従って、人間性が何ものにも抑制されずに発揮される時が自然状態である、という自然権を発揮すると社会は無政府状態に陥ることになるという理論になる。なぜなら富は限定的だからである。そこで社会契約を結ぶことで統治権を特定のものに委任する。それが国家主権であり、そのために国家主権はリバイアサンという絶対権力にしなければならないとするのである。

これに対してジョン・ロックの場合は逆に、科学技術の恩恵により富は拡大すると考える。人間は労働というものにより生産を拡大できる。それにより富は無限に拡大すると過去の理念を大きく変える。古代から中世まで、労働とは奴隷や農奴のものであり、知識階級や支配階級は、むしろ労働を否定して存在したものであったが、彼はそれを根底から覆す。そして生産のためには将来起こることを予測するという知性が必要欠くべからざるものであるから、人間の理性による自己規律を重要視する。労働というものを卑しいものと見ず、私有財産を認めることで共通の法を受け入れて共同体社会という国家を作るというものになる。そして法が機能しないような権力者が出た時には、「天に訴える」という革命行為までもを容認する。

一方、フランスでは17世紀には絶対王政が全盛であり、それが18世紀にまで続く。その中ルソーの社会契約論は1762年にようやく発表される。その違いはどこにあるのか。彼は人間の在り方は、その生きている社会がどのようなものであるかで決まると規定する。彼の時代、一般大衆は貧困にあえいでいるが、一握りの強者と富める者が権力と富を独占していると言う。その人間を倒錯させている文明社会を作り出したものは何かを考え、その結果、それを是正するために必要な原始状態に人間を返す。そこでは人間は生存本能とともに、哀れみの本能も持つとする。それを壊すのが文明社会であるなら、今の社会制度そのものを変える以外にはないとする。それがロックの社会契約論と違うのは、彼の言っているものが一部の階級に過ぎないと非難するものから、ルソーは全員参加の共同体という国家を作るという考えになる。そして人間は不完全ゆえに、そのような社会に参加することで主体性を持ち、自律的に「されなければならない」とすることを求める。それはホッブスやロックと異なる初めから自律的人間であることをあきらめて、制度を人民主権にすることで自律を達成しようとする逆の発想になる。つまり、小さな権力も持たなかった人々が、社会の一員として権力に参加することで主権を発揮できる自立した人間になることを求めるのである。徹底した主権在民理論である。

このように3人3様に微妙に異なるとはいえ、そこには人間というものを中世からどのように変え、その前提にデカルトによる二元性の理論による、人間の自然との対立としてみる思想があることが大事になるのである。人間絶対主義から現代の国家が作られている背景をよく見なければならない。
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