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宗教の本質とは何かを考える

仏教やキリスト教などの問題をつたない知識で述べてきた。しかし、宗教の本質とは何なのであろうか。人間より上の存在を認めなくなった現代人は、科学技術こそが正しいものとして、宗教とか神の問題を迷信ととらえて真剣に考えなくなってきた。何が問題なのかを考えて、その原因のようなものについて自分の意見を書いてみたい。

人間は物質的な問題だけで生きる生物では絶対にありえない。日本でいう心、西欧での理性というものの存在は重要な問題である事は間違いがない。だからこそ宗教が生まれ、神々が生まれてきた。人は生きるために他人や自然との関わりにおいて、どのようにすることが最もふさわしいのであるのか、という問いに答えるものが宗教ではないのだろうか。自分だけの繁栄を求めるのか、それとも別のものとの関係にも価値観を認めるのか。世界はそれによって現在が形作られてきたのではないだろうか。西欧思想と日本や東洋の思想との違いは何なのかが問われている。

一神教の問題はすでに述べてきた。自分の信ずる神だけが正しいという思想は、過去と異なり世界が圧倒的に狭くなった現代では、それは争いのもとになるだけである事も述べてきた。仏教の理念も述べてきた。しかし、現実的にわが国の仏教界は何もしていない。特に東日本大震災において、仏教界の沈黙は驚くべきことだった。長い間の仏教の理念はほとんど死滅しようとしている。その問題点を生意気にも指摘しようと思う。

仏教はキリスト教やイスラム教のような聖書という普遍的なものが存在しない。宗派ごとに異なる理念があるかのごとくに千差万別に見える。その事が仏教というものをますます日本国民から遠ざける原因になっているように見える。殆どの仏教界の人々は、その根本に流れている哲学を論じようとしない。禅なら禅の問題だけ、日蓮宗なら日蓮だけ、浄土教なら法然や親鸞だけ、平安仏教に至っては貴族宗教だの祈祷宗教という一言で片づけられている。これでは一般の日本人でさえ仏教の何たるかが理解できるわけがない。ましてや外国人に理解できるとは到底思えない。今の仏教界はあまりにも物質的に仏教というより自分の宗派を見ているだけに思える。個々の人間にとって宗派の問題より、その理念が何なのかのほうが大切なはずである。個別だけを見る事で全体を見失っていると言わざるを得ない。禅であれば坐禅とか無だけが論じられ、浄土教であれば法然の口称念仏や親鸞の教行信証の問題、等々の個別の問題が論じられて一般人は混乱に陥る。その根底に流れる釈迦の苦からの離脱の問題や他人も救うという大乗仏教の自利・利他という基本的な問題の提示があまりにもなさすぎるのではないだろうか。各々の宗派を作り上げた者たちは、時代々々の要求のために苦悩し、考えて独自の思想を作り上げてきた。しかし、その根底にあるものは同じであると考える。

宗教は神の問題である以前に哲学としてとらえるべきではないだろうか。何が人にとって正しいものであるのか。その正しいと言う事はどのようにして獲得できるのか。それが道徳というものの基本なのではないのだろうか。世界が過去と変わってきたなら、過去には正しいと思われた哲学も変わらざるを得ないのではないのか。ならば過去の神もそのままでよいのだろうか。神もまた変わるべきなのではないのだろうか。いや変わることなく正しい神がいるのであれば、それはそれとしての議論が求められるべきではないのか。我々は物質的な問題の議論ではなく、我々より上の存在としての神のあるべき姿をもっと真剣に論ずるべきではないのだろうか。それなくして世界の平和とか、戦争の問題とか、人類の発展とかいう問題は決して解決されないのではないのか。その意味では宗教という哲学をもっと論ずるべきであると考える。神というものを固定的な観念で考える事が正しいのか。現代の人間に求められている問題はその事ではないのだろうか。

新興国家の経済発展によって、世界はどんどん物質的な要求が強くなっている。それによって過去の西欧や日本がおかした間違いを繰り返してはならない。情報技術や移動手段の発達で、世界は過去と比較にできないような、極端に狭い世界になっている。その新しい世界に、どのような哲学を持った宗教、あるいは神がふさわしいのか。それを我々が提示するべきではないのだろうか。多神教という自然崇拝をもつわが国の長きにわたる歴史の中にこそ、世界を救える思想があると確信する。人類自体の共存共栄、そして人類と地球という自然との共存が、今までにないほど重要になっている。それはキリスト教などの一神教や、西欧の人間中心の思想だけでは決して解決できない問題である。宗教は目的ではない。人間が正しく生きるための道具に過ぎない。神を冒涜する意見だとして怒られるのを覚悟して敢えて述べた。けれど、仏教においては神は「あるもの」ではない。「なれるもの」なのである。そのなれるための努力こそが宗教としての本質なのではないのかと考える。

仏教とキリスト教との違い

大多数の日本人は仏教を知らない。知らないというより知ろうともしない。過去の日本に連綿として続いていた優れた思想を知らないことは何という不幸なことであるのか。我々の生活にある多くのものには仏教の思想によるものが知らない間に入っている事にも気づいていない。明治以来の西欧文明至上主義がいまだに続いている結果、大多数の人はキリスト教などの一神教の方が優れた宗教と勘違いしている。しかもその内容の違えさえ分かっていないと思われるのにである。この誤解を解く意味でも、ここにその違いを簡単に述べてみたい。

仏教は釈迦に見られる個人の救済を求める小乗仏教と、個人のみならず他者も救うという大乗仏教に大別される。ここでは両者のエッセンスのようなもので仏教全体を述べてみたい。キリスト教は旧約聖書に基づくユダヤ教と新約聖書によるキリスト教になるが、その基本はユダヤ教にあることは否定できないのでユダヤ教の根本原理も含めて述べてみたい。

両者の違いを一言でいえば一神教という人格神と多神教である個人の中の仏という神との違い、並びに人間が中心となるキリスト教と自然が中心となる仏教という違いであると考える。キリスト教は唯一絶対神である神を認め、そこに全てを委ねる事で救済されるという思想である。神の決めた思想に基づき、教会を経由して神に帰依するカトリックと、神と個人との直接契約という過去の米国のピューリタン思想に代表されるプロテスタントに大別されるが、根本は同じである。契約により神の求める善行を行うものだけが救われるというものである。

これに対して仏教は釈迦から始まり如来や菩薩などの多数の神があり、人間は苦というものから離れるために修行や念仏により救われる事で仏になれると考えるものである。また人間は自然と同じ存在にすぎず、宇宙のあらゆるものはお互いに関係して独自に存在するものは無いという大前提の思想を持つ。

簡潔に書けば以上の違いで理解できると考えるが、仏教にはキリスト教のような聖書というものがないために理解しづらい事は否めない。宗派ごとに違う思想があるように見えるが、その根底を流れる思想はどこも極端に違う考えはない。どちらが優れているかという問題は個人が決めるものであるが、私の考えは、すでに何度も述べているように、一神教ではなく多神教である仏教こそが世界を救いうるという考えである。多神教に加えて、仏教はおのれの中の心の深い闇を見つめるという思想があり、その意味では神に全てを委ねるという意味で、一神教が異教徒というものを認めないという傲慢性を持たない。仏教における悪は常に個人の中の問題であり、一神教が神の名の下で正義を求めるという意味の、他人の中の悪を許さないという思想がない。すなわち原理的に闘争という概念を持たないのである。

もちろん世界は、西欧の人間中心の思想による科学技術の利用により大きく発展したことも事実である。しかし、現実を見れば自然破壊の問題や、戦争がなくならない事や、物質的な利益追求の極端な進行という数々の問題で、世界はあらゆる意味で行き詰まっているのは厳然たる事実である。我々は、現在の世界を短絡的に見ず、過去からの世界の人類の思想や歴史的事実を正確に見なければならない。その歴史的な背景を正確にもつことで初めて次にどの方向に進むべきなのかが判断できるはずである。物質的なものの豊かさと、精神的なものの大切さの両方があって、初めて人は幸せを獲得できるものと信じる。どのようなものが世界を救えるのであるのか、いま我々は問われている。事業仕訳けの結果を非難したある学者の言葉の「歴史の法廷に立てるのか」という問いは一見もっともらしい。しかし中身を見れば、彼のような物質的な意味だけのもので、しかも自分たちの利益だけのための意味のものには誰も感動もしないだろうし、ましてやだれも説得もできる訳がない。他人を思いやる心や、自然との共生のような、過去からの優れた人類の思想を見直さない限り、平和な世界も幸せな世界も作る事は出来ない。あのような見せかけの言葉や行動だけでは何も解決しないだろう。願わくば、わが国にはもっと優れた多数の国民がいる事を信じていたい。

あらゆる宗教は心という物質でないものに原点を求める

私は一神教を非難し続けてきた。ある意味では間違っていたと思う。人間は誰でも自分がかわいい。そのために努力して世界は発展してきた。人間のために科学技術を使い自然を支配する事で人類が発展できてきた。今それを非難しても意味はない。現在の発展途上国も同じ恩恵にあずかることを非難する資格が我々にあるのだろうか。人類は何のために豊かになろうとしているのだろう。

人は必ず死ぬ。それはあらゆる人類に課せられた平等の摂理である。誰もがそれを悩み、考え、数限りない思想が生まれた。思想という言葉が間違いなら宗教が生まれた。全ての人は生きる事に意味を求め、自分の存在について他人からの評価の軽重で自己の存在意義を図ってきた。その評価の基準のために宗教も哲学も存在意義があったのだろう。特に西欧の人間至上主義においてこの考えは顕著である。インドから東洋諸国に派生した思想はこれとは対極的な思想である。しかし、それも究極的には個人というものの救済に過ぎない。それが狭い意味での個人であるのか、それとも宇宙という中に大きな意味の中の個人かという違いなのだろう。どちらを求めるのかは私が決める問題ではないと考える。一神教でも、それが個人を越えて他人のために犠牲を払う心は尊いものであり、それを非難した私はあまりにも傲慢であった。表面しかかじっていない仏教の思想を、全て分かったような事を言ってきた事を恥じる。あらゆる意味で手段は関係なく他人を思いやる心は正しい。それを非難したら何の意味も無くなるだろう。宗教とは個人より上の神という倫理を認める事に他ならない。

我々は過去の歴史を物質だけで見てはならない。人類の発展が永続するためには自然の搾取だけでは意味がないが、それは所詮は人類の都合による考えに過ぎない。人類が滅びれば自然は勝手に再生し、新しい地球が生まれるだろう。だったら自然は人類との共生など望んでいないだろう。人類が早く滅ぶ方が幸せなのだ。人間が物質だけを求めて滅んでくれと日々、願っているだろう。

だからこそ逆説的な意味で我々は共生と言う事を強く願わなければならない。一神教による個人の救済のために他人を救う思想も認めよう。自己は宇宙の一部に過ぎないと言う仏教の思想も認めよう。あらゆる意味で我々は自己だけが正しく、他人を犠牲にしたうえで繁栄すると言う思想を排除すべきである。他人や自然のために生きると言う共生の哲学だけが世界を救えるものだと信じる。その意味では一神教という唯一絶対神は異教徒も認めるという、さらなる偉大性が求められる。精神は常に物質より上にいなければならない。それこそが宗教という意味の神の存在なのだと信じる。

一神教において神は「ある」もの、仏教において神は「なるもの」か

以前ツイッターにおいて仏教における神とは「なるもの」との指摘を受けて、そうだと思ったが、本当にそうなのかをずっと考えた上、やはり違うのではないかと思った。正確に言えば仏教においては神は「なれるもの」だと結論した。この違いの意味を説明したい。

キリスト教などの一神教においては、人格神という絶対神の唯一無二の存在に対しての無批判の帰依が求められる。だから神は「あるもの」と定義できる。これに対して仏教などは如来や菩薩などの多数の仏という神が存在する。そしてある人は、それらに対して我々は「なるもの」と定義していると言う。しかし本質はそうではないと考える。あらゆる仏教の宗派は実践が大事なのである。考えるだけで実践を伴わない仏教に意味は何もない。だからこそ人もその他の生物にも仏性というものが存在し、それを発揮する事で仏になれるとしている。単に存在するだけでは仏にはなれない。なるという努力が必要なのである。人間以外の動植物や自然は厳しい環境のもとで精一杯に生きる事で仏性を発揮している。人間は漫然と生きていてはならない。自分をみつめ、正しい生き方を考え、そのうえで他人を助けると言う菩薩行を行い、それによって初めて仏という神になれるのである。だから単純に「なる」というものではない。やはりそこには努力というものが要求されている。だからこそ「なれるもの」という定義こそが正しいと思うのである。誰でも簡単に仏にはなれない。努力こそが大事なのである。

しかし浄土宗などの口唱念仏といわれるものはどうなのであろうかという疑問が出るかもしれない。しかし口唱念仏はあくまでも南無阿弥陀仏という念仏を唱える事で救われるというものであり、そこには仏になるという概念はない。浄土に行けると言う実践のための易行という概念である。やはり仏教の神髄は修行などの実践によるおのれの生命の見直しなのである。いかに正しく生き、欲望だけににかたよらず、他人のために生きると言う菩薩行ができるのかという自利・利他の業が必要なのである。それによって人は始めて精神というものの重要性を理解できるのである。我々は仏教をもっと哲学的な思想という観点で理解するべきである。単なる葬式などと言う儀式だけで解釈すべきではない深遠な思想を見直さなければならない。

日本仏教の本質とは何か

仏教はキリスト教やイスラム教などと比較すると非常に分かりにくい。キリスト教などは聖書を見ればそれで理解できるが、仏教には統一的な理念を語る聖書のようなものは存在しない。無数の経典と多数の宗派があり、宗派ごとに異なっているように見えるからである。一見バラバに見える仏教であるが、そのエッセンスは同じである。また日本における仏教の理念も基本的には一つのものに集約できるであろう。現代にいたるまで仏教関係者は個々の宗派における解説はしてきたが、仏教全体としての総合的な解説というものを怠ってきた事は否めないであろう。その最たるものは鈴木大拙による英語による禅の解説をもっての仏教の紹介であろう。確かに海外での禅の理解は深まったが、仏教を禅としてしかとらえないという誤謬が生まれた事も事実である。小乗仏教と言われるものから大乗仏教に至った仏教が、日本においてどのように根付いていったかを知らずに仏教を理解する事は困難である。その本質は何であるのかを概説したい。

結論から言えば、日本仏教の本質は「天台本覚思想」というものにある「山川草木悉皆成仏」という言葉に集約されると考える。人間のみならず動植物にも自然にも仏が宿るというアニミズムのような思想は釈迦仏教にはない考えである。原始仏教は個人の悟りという救済が目的であり、それが大乗仏教になって他者の救済まで広げられたが、このように人間以外の全てのものにまで仏性を見るという考えは日本独特のものである。この考えはどこから来ているのであろうか。その答えは、明治維新で行われた「廃仏毀釈」という問題にあるのは歴史の皮肉としか言いようがない。廃仏毀釈以前の日本では、お寺に神社が同居するのは当たり前であった。中央集権のためにねつ造された国家神道のために、明治政府は仏教を神道から無理やり切り離して国民をまとめ上げる道具としたのである。その結果、仏教は壊滅的な打撃を受けて現在に至っている。教育の場から仏教の理念は100年以上も葬り去られた事で、日本国民の仏教への正しい理解は日ごとに無くなり、現代では殆どの人々は仏教の内容を理解できなくなっている。2千年にもなるわが国の歴史の中で、国民の精神的な中心をなしていたものが短期間に失われてしまったのである。我々は今一度それを取り戻す必要がある。

日本の根源にあるものは、20万年前から2千年前の稲作文化の始まりまでの、非常に長い期間の狩猟採集という縄文文化である。日本で発見されている縄文土器は世界で最も古く、はるか1万2千年前にさかのぼるものである。この時代の宗教観は人間は死んで、そしてまた生まれ変わり帰ってくるという循環の思想であった。また人間は自然の一部であり、動物や植物と同じ位置のあるものと考えられていた。それが原始神道につながるものになり、稲作をもたらした中国からの渡来人による日本の征服によって出来上がった大和朝廷というものの後にも無くなることなく、現代にいたるまで我々の中に連綿と続いているのである。今でもお盆という休みは最も長く大事なものであり、その期間は先祖の霊が返ってくるものといわれて数々の行事が続けられている。新しく生まれた子供は、亡くなった親族に似た子が生まれると、その生まれ変わりであると信じられてもいる。これは明らかに仏教の理念とは異なったものである。山が多い日本の国土では、森林は長きにわたり伐採されずに存続し、現在でも国土の60%以上は森林である。自然信仰は根強く、食文化も他国と異なり、刺身とか鍋料理が多い特異な文化を長い間もち続けている。このような中で仏教の中にも自然崇拝の考えがもたらされたのは自然であり、神仏混合が自然発生的に起きた事は不思議ではない。それは平安時代に最澄と空海による天台宗と真言宗という2大仏教の始まりから続いていると解釈できる。特に空海による真言密教の考えは自然の神である太陽の神としての大日如来というものが中心になるもので、日本人には受け入れやすいものであったことは確かである。天台宗でも密教の教義を受け入れる事で、真言密教に対する「台密」というものが大きく発展する事となった。これによって天台宗は日本仏教の総合的な大学のようなものとなり、後の鎌倉仏教である浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗の全ての生みの親となったのである。

江戸時代に入り、幕府によるキリシタン禁制のための仏教寺院の檀家制度によって、日本仏教は保護された事により、布教の努力や新しい宗派は出なくなり形骸化が進んだ。仏教は葬式が主たるものとなったものの、寺子屋という制度のもとでは庶民の精神的な教育の場としては存続していた。仏教の中にも循環の思想が入った事により、お盆や正月などの儀式の中に先祖供養は大事な行事として残されてきたのである。確かに大乗仏教の理念である「自利・利他」という他人を救済するという理念も大きなものであったが、日本仏教の中に占める祖先供養というものは一番大きな比重を占めるものとして存在している。死んでもあの世でしばらくいるだけで、新しく生まれ変わるという循環思想はDNAの存在でも科学的に証明されている。この思想を信じれは、死ということは怖いものではなくなるだろう。そして人間は宇宙のあらゆるものの存在の一部に過ぎないという、自然との共存という共生の理念も大きなものがある。わが国の国民の心の中に占めるこれらの優れた思想こそが日本仏教の本質なのである。この考えは西欧の人間中心で行き詰っている世界に対する人類の新しい考えとして十分こたえられる思想である。日本人は誇りをもって自分たちの思想の見直しに入るべきである。
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