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敵対する思想の中からは何も生まれない

尖閣をめぐる問題では中国と、竹島では韓国と大騒ぎになっている。いずれも領土という問題であるが、その背後にある中国や韓国の感情を見なければならないだろう。すでに何度も書いたが、明治維新は、日本が西欧の科学技術文明の全面的な移入という政策によって成功した歴史である。一方、中国も朝鮮も、中国の一国が世界という大国主義と、その儒教による過去しか顧みない思想により世界の発展から大きく立ち遅れた。日本は、西欧の科学技術による富国強兵に成功したが、その背景にある西欧の国家覇権主義がすでに時代遅れのものであったことに気づかず、そして軍部官僚による統帥権の悪用による暴走を止められずに、朝鮮や中国に侵略した。国力に劣る朝鮮や中国は日本にかなわず、大きな被害を受けた。そして日本は太平洋戦争に突入して自滅していった。大体、これが明治以来の歴史の流れであるだろう。

しかるに明治以前の日本の歴史はどうなのであろうか。大多数の日本人は、大和朝廷設立以降の歴史が日本だという理解しか持っていない。そのために、日本は稲作中心の、万世一系の天皇による国家という単純な理解をしている。しかし事実は違う。大和朝廷の発生から今日までの歴史は、日本における歴史の五分の一にすぎない。全体の五分の四は縄文文化の長い時代の歴史である。人種的にも、縄文人は古モンゴロイドという毛深く、彫りが深く、手足の長い人種であるが、大和朝廷を作り上げた弥生人は新モンゴロイドという、中国や朝鮮から渡来したのっぺり顔の手足の短い人種である。日本人の基調は、母方に縄文人、父方に弥生人という混血である。

縄文土器は世界で最も古いもののひとつであり、その多彩で精巧なことでは世界一優れたものと言われている。基本的に狩猟採集による長い歴史があり、その影響は日本人の食文化の中に見られる「刺身」などの生ものを食べる習慣や、土器を利用して調理した事による多彩な鍋料理に名残りが見られる。縄文人の子孫は弥生人に追いやられた結果、北海道のアイヌと、沖縄や南九州の端っこに位置する隼人などに残された。大和朝廷を作り上げた弥生人は、中国の江南地方から渡来して九州南部にいた人々が東征して、近畿地方にいた朝鮮から来た別の弥生人の集団を征服した者たちと言われる。それが古事記や日本書紀にいわれる、国つ神から天つ神への国譲り神話となる。以降、明治時代まで、文明は全てインド、中国、朝鮮からもたらされてきた。その中で日本人は言語も、文化も、宗教も、日本独特のものに変えながら、島国という特性の中で歴史が作られてゆく。

従って、明治以降は全ての文明が西欧からの移入に変えられるまでは、全ての文明は中国と朝鮮経由で来たのである。それが明治以降は大きく変わり、過去を忘れて中国や朝鮮を侵略した事で、彼の国の人々はその恨みを未だ忘れてはいないのであろう。しかし、日本も敗戦で大きな痛手を負ったし、中国と韓国とも、戦争に関する全ての事は国際法に基づき決着済みとした事も事実である。それが不十分だと、いつまでも政治的に利用しても何も解決にはならない。そこは我々は正しく歴史を認識したうえで、毅然とした対応が必要である。領土問題もその延長上で考えるべきであり、毅然として対応すべきなのに、竹島については具体的に何もせず、今回の尖閣についても政府間での話し合えも行われようとしない。そこは国際法廷での決着以外に解決策はないだろう。明確な方針が必要である。

すでに韓国も中国も、経済的には日本を越えようとしている。日本はバブル崩壊以降、経済的にも外交的にも影響力は低下し続けているが、それによる敵対という状態では何も解決にならない。前回にも書いたように、すでに世界は狭くなっており、国家間の闘争を元に発展は続けられない。それは歴史が証明している。大きな流れの中で、お互いに取るべき道をみつけ、お互いが納得できる方法で問題を解決すべきである。国家間の敵対思想による解決は何も生まない時代になっているのだ。世界に必要な思想は共存・共栄という、科学技術をもとにした、地球というの限りある資源の利用による発展という新しい思想によらなければならない。

世界を一つにする文明の成立のために

現代人は、世界というものは狭いと思っているはずである。高速の自動車、鉄道、航空機、船舶、などの移動手段をもち、過去の人間が数日や数ヶ月かかって移動した距離を瞬時に移動できる時代になった。情報はIT革命や衛星通信技術により、瞬時に世界中を駆け巡る。しかし対立というものは止むことがない。

トインビーは16世紀には6つの文明がユーラシア大陸に存在していたという。①西ヨーロッパ文明、②東ローマ文明、③アラブ文明、④ヒンズー文明、⑤中国文明、そして、ちょっと無理のある⑥日本を中心とする極東文明、というものを述べた。これらの文明は併存していたのであるが、なぜ併存していたのかと言えば、それは過去の地球の中で人間の移動は多大のリスクと時間が必要だったからに他ならない。現在から比べれば、物理的ではない意味で、地球は巨大な惑星であったのである。そのために各々の文明圏に生きている人々は、その所属する文明こそが世界だと思っていたのである。

これが大きく変わった原因は、デカルトなどの哲学者による、物質と人間というものの分離という思想から科学技術を発達させた西ヨーロッパ文明であった。科学技術の発展につれて、物質的な豊かさと共に強大な武器の所有は他文明を圧倒し、巨大な船の建造によって世界を徐々に狭くしてゆく。その結果が国家覇権主義というものになり、西ヨーロッパ以外の文明の国々は、その文明のもとに屈するか、又はそれを受け入れるのかという、どちらにしても西ヨーロッパ文明化を選択せざるを得ない結果となったのである。現在の世界は、明らかにその延長上にいるのである。科学技術により自然を支配して、人間の欲望を満たさんとする歯止めのない文明が世界を覆っている。自然破壊は止まらず、原水爆などの巨大で制御不能の武器の所有は、それを使用した瞬間に人類そのものが滅亡する危機にある。しかし文明間の対立は無くなろうとしない。明らかに西ヨーロッパ文明では行き詰まりがはっきりしているのだ。では何が求められているのであるのか、我々は真剣にこの問いを考えているだろうか。

地球人口は70億を突破し、近い将来100億にならんとしている。もはや過去の科学技術を無視した生活には戻れない。人類が滅亡せずに生きてゆくためには、新しい思想の元の共存共栄の世界が必要である。それはどのようにして達成できるのであるのか。現在の文明を発達させてきた思想を見直さなければならない。西欧の思想の根底にある「闘争の原理」を変える必要があるのである。ヘーゲルに代表される国家の絶対化と、正・反・合、という弁証法による発展という闘争の原理、これだけでは世界はもはや行き詰っているのである。個々の国家は、過去の基準から言えば、あまりにも小さいものでしかなくなっているのである。世界は一つの国として考えざるを得ない状況にあるのだ。各国というものは、一国の中の地方として捉えるしか人間も地球も生き延びる道はないであろう。

闘争ではなく共存に必要な思想、それは東洋の多神教、なかんずく日本仏教の中に見られる和合の思想こそが求められるのである。人間だけでなく動植物などや、果ては山や川などの自然にさえ生命を見る思想が求められるのである。西欧思想は人間中心の思想である。動植物や自然は人間のために存在するという原則がある。それを変えなければならない。科学技術は支配のためではなく、共存のために使うべきものに変える必要がある。我々は、あることを知らず知らずのうちに目的化してしまう。ITに見られるような新しくて便利なものが出現する。本来、それは何かを達成させるための道具に過ぎないが、それで生活できることから道具が目的化してしまうのだ。同じように科学技術の絶対信仰のようなものがある。しかしそれは間違いだろう。道具は道具でしかない。原発を見よ、誤った使い方をすれば、結局はとんでもない結果を生み出すだけである。知識ではなく智慧の復権が必要なのだ。

明治以来、西欧化によって進んできたわが国は、成功と失敗を繰り返しているが、依然として国民は目標を失っている。何のために生きているのか、生活は何のためにあるのか、そんな閉塞感がますますひどくなっている。戦後は、心の教育というものが消え、西欧の物質万歳という欲望追求の世界が、一層、顕著になった結果であろう。過去に戻れとは言えないが、仏教や儒教、八百万の神という原始神道の思想などの優れた精神を再度見直さなければならない。世界を救う思想は日本の中にある。

人間の理性が全てという西欧思想は間違いであった

17世紀の西欧思想のみなもとは、デカルトによる人間と、それ以外の物質という二元論から始まる。その延長上に西欧の自然支配のための科学技術が発達する事で、西欧諸国は大きく発展するとともに、その強大な武力によって世界を支配する事になった。デカルト以降の思想家たちもこの考えを継承し、ついに人間が神を作ったとして人間至上主義となる。ヒューマニズムとは正にこれを意味する言葉である。神を捨てた人間は、その拠りどころを「理性」というものに絶対性を与えた。理性こそが人間を正しく導くもの、道徳の基本とされた。しかし、人間の理性の裏には他者を支配せんとする恐ろしい欲望が隠れていたのである。西欧思想の本質の全てはここに帰結される。支配せんとする欲望は戦争の肯定となり、さらに社会の中での競争こそが発展を促すものという考えになっていった。

これらの考えのみなもとは西ユーラシア大陸でおきた小麦主体の農業と牧畜に深く関係する。これらの栽培には人間が植物も動物も支配するものという考えになり、その結果として集団の考えを一つにした一神教の土台となりキリスト教などの一神教が勢力をもつ背景となった。一方、東ユーラシアはモンスーンの影響で雨が多く、熱帯雨林もあり、農業は稲作主体で発展した。水を多く必要とする稲作のためには森の管理が必要となり、自然崇拝が必然的におきたことから多神教が普通の感覚になっていった。そこでは人間が主体ではなく、自然との共存共栄という考えが強く、西欧の感覚とは全く違う精神的土壌となっていったのである。

自然を科学技術により利用する西欧は、18世紀後半に起きた産業革命により工業化が加速され、その発展は他の地域を大きく上回るものになってゆく。その結果が植民地政策などの他国の収奪経済となり、アメリカ大陸やアジア地域にも西欧の力が大きく影響してくることとなった。この危機を大きく感じ取った幕末の武士階級は明治維新を成し遂げ、国家の形を科学技術を主体とする西欧型の国へと変える事で富国強兵政策を成功させた。しかしながら日本独自の神仏習合というものは完全に否定され、国家神道という新たに作られた天皇を神とする一神教的なものに大きく変えられてしまった。結果として、西欧のまねに走り、19世紀ではすでに時代遅れとなっていた国家覇権主義に走り、太平洋戦争で自滅してゆくのである。教育も西欧の科学技術の移入が目的のものに変えられた。その結果、精神的な問題を正しく教えることなく、数学と英語主体のものに変わってしまった。結果として、技術というもののためだけの教育になり、それは戦後も変わることなく続き、逆に戦前の修身道徳という天皇のために死ぬというものの全面否定から道徳というものが消え、ますます技術中心の教育は加速されて今日に至っている。
神を捨てた事により、世界は欲望が支配するものに変わってゆく。戦後の我が国や米国などを見ても分かるように、人間の価値は精神的なものから物質的なものの獲得で決まる世界に変わった。結果として、世界から戦争もなくならず、経済的発展だけが目的の社会となり、人間の基本となる道徳などの拠り所を何に求めるのかが消え、多くの人々が精神的なよりどころを失う結果となっている。世界は物質的には発展した。しかし精神的には神を捨てた事で間違いなく退化したのだ。我々は本当にこのままで良いのかを自問しなければならない。たしかに世界の人口が100億になろうとする中で、過去、自然破壊を続けてきた科学技術を否定するだけでは人類の生活は成り立たない。しかしながら、戦争や自然破壊をなくせない人間中心の西欧思想でも世界は成り立たないことも明らかである。人類には西欧思想を越えた新しい哲学が必要なのだ。未来の子供たちのためにより良い世界ができるような新しい共生の思想という精神が必要なのである。そのような精神的な思想に基づく世界を作る事ができる国にすることが我々の義務でもあるだろう。

何を求めて社会を作るべきなのか

まいど何度も同じような事を書いてきているが、我々は何を求めているのだろうか。物質的な欲望の満足だけの社会はいつか行き詰まるだろう。しかし100億になろうとしている世界人口を支えるために、過去の農業や狩猟採集だけに頼る世界に戻ることは不可能である。工業という科学技術に支えられた自然からの搾取による経済の存在を無視して地球経済は成り立つはずはないほど引き返せない所まできている。我々の選択肢は日々狭められている。このまま何もせずに破滅に向かうのか、それとも新しい世界を作るために何かをするべきなのか。誰がそんな事を考えて行動しているだろう。誰もが日々の生活のために汲々としているのに、お前は何を偉そうに言うのかという言葉が聞こえてくる。しかし現実には非西欧諸国の発展は著しく、世界は明らかに変わりつつある。遠からず地球人口は100億になるだろう。日本は過去のような工業による輸出で生きていくことは困難になるのは目に見えている。又、非西欧諸国の台頭で、世界中の一次産品は明らかに奪い合いの状況となるだろう。それなのにわが国は農業も漁業も原発事故で大変なことになっている上に、TPP参加などというバカな議論が続いている。いまから一次産品を国内で賄える体制を作っておかない限り、近い将来、間違いなく国民は生活に困ることは明らかである。この国の政治家の先見の明のなさ、それは知識人といわれる者たちも同じだ。官僚は変化というものに対応できないからはじめから失格である。何も出来る訳がない。

我々が求めるべき社会は「国」という単位のものであってはならない。世界が過去に比べて、物理的にも、情報通信の速さにおいても、極端に小さいものになっている現在、従来からの思想のままでは何も機能しないだろう。各国は、現在の一国の中の地方のような感覚にならざるを得なくなるはずである。世界が一つの国になるという事は非常に困難だろう。EUを見て見ても経済という問題で対立が起きる。それを全世界が一つになるという思想にすることはもっと困難が待っているだろう。しかし、この問題は絶対に避けては通れない。それは過去の歴史を見れば必然に思える。17世紀以来の西欧による科学技術による発展の上の人類の繁栄、それが西欧以外の国々に広まっていけば、その先にあるものは何か。その事を抜きにどんな思想も意味を持たないだろう。人類が発展を続けるためには、あらゆる意味で共生の理念が求められるのである。それは自然との共生、他文化との共生、異なる宗教との共生、そして工業とそれ以外の一次産業との共生であろう。有限な資源をどのように使って発展を持続するのか、その問題抜きに将来を考えるべきではない。そして日本こそ、我々こそがその答えに最も近い経験を経ているのである。日本人が世界にその必要性を提唱すべきなのである。

精神の復権に向けて

現代社会は、過去300年間の科学技術の発展による工業化により、過去のいかなる時よりも急激な発展を遂げた。人類はおよそ30~50万年前に出現し、1万3千年ほど前から農耕・牧畜を始めて文明と呼ばれるものが始まった。そして17世紀後半から、自然を精密に研究する事で利用せんとする科学技術が発達し、18世紀の終わりに起きた産業革命という工業化でそれが加速され現代に至っている。

17世紀に始まる科学技術の発展の基礎はルネ・デカルトの二元論による。思惟する自我と、その延長線上にある物質という思想により人間とそれ以外の動植物や自然は単なる物質という人間中心主義の始まりである。それは西欧においてヒューマニズムという形で表現されるものとなり、現在でも世界中でこの言葉は使われている。すでにその詳細は「戦争を肯定する西欧思想とは何か」に記した。人間中心の思想は神という人間以上の者の存在を否定し、人間の理性というものに全てを見ようとした。しかし、現実には理性という作りもので人間の本質を規定する事は不可能であった。人間中心の社会とは、物質に対する無限の欲望の肯定に他ならない。ヘーゲルは国家の絶対化で弁証法という理論で戦争を肯定し、それは西欧の国家覇権主義となって収奪経済を作り上げる思想的な背景となる。さらにフォイエルバッハの欲望肯定の思想はマルクスに至り、ヘーゲルの弁証法を借りた生産絶対主義の階級間闘争による社会主義国家の実現という唯物弁証法の理論となった。ここで物質的な欲望は際限のない発展が約束されていくのである。欲望の肯定はニーチェにおいては、強き者による他を支配せんとする意志となり、フロイトによっては人間の活動の根源は性という欲望が支配しているという考えになってゆく。こうして世界はますます人間の欲望に歯止めがない社会になっていったのである。

19世紀後半の明治維新で、日本が西欧思想と科学技術による富国強兵政策を取り入れた事で、わが国も基本的に過去の思想から西欧の人間中心の思想に転換したのである。戦前までは忠君愛国という道徳教育が残っていたが、敗戦による価値観の転換で、過去の道徳は存在する思想的根拠を失い、以来、わが国の教育から道徳という概念までもが失せ、経済的な欲望の追及一辺倒の社会となって、それが現在も続いている。明治以前に日本人が持っていた仏教や儒教による厳しい倫理に基づく道徳観は、明治維新の廃仏毀釈により徹底的に失われた。我々の祖先が連綿と持っていた原始神道による自然崇拝に基づく神は殺され、新たに天皇という神が現れる事となった。その神も敗戦により人間宣言する事で、わが国から神は完全に消えたのである。

すでに人間中心の思想は、西欧において19世紀から問題が指摘し始められていたが、明治維新からの日本はそれに気づくことなく現代に至っている。神を捨てた現代社会は、欲望だけの肯定社会のままに動き続けている。戦争はなくならず、宗教間の対立もなくならず、それはむしろひどくなっている。新たな経済的な発展を遂げつつある新興国家により、西欧と他の文明との衝突はいつ起きても不思議のない世界になりつつある。このような状況を変えなければならないのに、どの国も主導的な思想を述べられない。欲望だけを肯定する資本主義社会は必ず行き詰まる。わが国が経験した精神の喪失という神の喪失、その問題をもっと考えなければならない。人はパンのみに生きる者にあらずというキリスト教の教えに象徴されるように、人間から精神という心の問題を抜きにした社会は異常である。他人を殺してはならないとか、人のものを盗んではならないとか、嘘をついてはならないという本当に基本的な道徳なしに社会は存在できるのであろうか。その大事な精神の復権がなければ、日本国民にも人類にも未来はあり得ない。物と心の両立が必要なのである。世界に求められるのは心という精神の復権である。それを世界に発信する事こそが我々日本人に課せられた義務である。

それにしてもわが国の精神の劣化はひどすぎる。経済という欲望の拡大だけが至上命題になったまま何も変わらず、公務員も政治家もマスコミも、さらには知識人といわれる者たちも、原発事故や小沢一郎に関わる政治とカネという問題、さらには消費税の増税での嘘だらけの社会。このように社会を導くべき者たちの道徳の劣化のひどさ。これでは世界に新しい思想を発信する事など夢のまた夢に思える。もはや国民、一人一人が覚醒して国を変える以外に方法はないように思える。震災対応で世界が驚いた日本人の対応、その心にある精神の復権が必要である。

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